東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」は「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

幸いなるかな、平和をつくる人々 2021年8月1日 聖霊降臨節第十一主日・平和聖日礼拝

ミカ書5章1~4a節
マタイによる福音書5章9~12節
説教者:関義朗牧師

イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである」と教えてくださいました。今日では平和は戦争を防止することだけでなく、地球環境を守り、生きるものすべてが平和に過ごすことのできる世界を実現することへと広がっています。それは厄介な、骨の折れることであり、迫害を受けることさえあります。
しかし、神は言われます。「あなたは既に十分な報いを受けている。神の子と呼ばれ、神の国を受け継ぐ者とされた」と。この世界での名声は一瞬のものです。神の命の書に私たちの名が書き記され、永遠に覚えられる方がどれだけ光栄なことでありましょう。
キリストは私たちの平和のために一番貧しくなられました。私たちはこの主に倣う者でありたいと願います。
神は私たち一人ひとりにそれぞれの生活の場で平和の実現に参加することを求めています。私たちは熱心に平和を求め、実現する働きに加わりたいと思います。

 

ひとつの希望 2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日

列王記下4章42~44節
エフェソの信徒への手紙4章1~6節
説教者:関義朗牧師

キリスト者は神から招かれた人であり、それは家柄や身分や功績によりません(エフェ4:1)。様々な人たちが「一つの体」である教会に招き入れられキリストの平和の絆(エフェ4:3)で結ばれています。

キリスト者とキリスト者の群れである教会は「愛をもって互いに忍耐する」(エフェ4:3)よう勧められています。聖書が語る「忍耐」は他の人に対して耐え忍ぶという人間同士の関係を含みません。これは「怒りを表に出すことを遅らせること」で、神の特性の一つです。

神は人がご自分を忘れ、したい放題のことをしていることをお怒りになられますが、その怒りを人に下すことなく、愛する独り子を世に遣わし罪をすべて背負わせて私たちを罪の源から救い出してくださいました。そして人がそのことを信じ改心するならば、赦し、救ってくださいます。

キリスト者はこの希望によって生かされています。私たちは力や能力がなくても、僅かな取るに足りないものを用いて多くの人を満たす(王下4:42-44)神の御力に信頼しているのです。

 

神の民はひとつ 2021年7月19日 聖霊降臨節第9主日

エレミヤ書23章1~6節
エフェソの信徒への手紙2章11~22節
説教者:関義朗牧師

パウロは「あなた方は以前は神から遠く離れていた、しかし今やキリストの命によって神に近い者となった」と告げています。キリストは人々が神に敵対し、また互いに分断している敵意という壁をご自分の命によって取り壊し、平和を実現してくださいました。

しかし懐疑的な人は「どこにそんな平和があるのか」と言うでしょう。それは人々がキリストの成し遂げられたことを信じることが出来ないからです。

キリストを信じる人々の群れは使徒や預言者の土台の上に建てられており、そのかなめ石はキリスト・イエス様ご自身です。私たちは絶望する前にまだするべきことが残っています。

私たちは一人ひとりが神の宮であり、それが組み合わせられて成長し、ひとつの聖なる神殿になるという希望を失ってはなりません。私たちはすべての被造物と共に主を賛美する日が来ることを信じて、小さなことでも良いので主の御心をこの世界に為していく働きを担いたいと思います。

 

神の約束の相続者 2021年7月15日 聖霊降臨節第8主日

アモス書7章12~15節、
エフェソの信徒への手紙1章3~14節
説教者:関義朗牧師

預言者アモスは悔い改めることなく形式的な祭儀をおこなう人々に神の裁きの言葉を告げました(アモス4章)。祭司はアモスに預言することを禁じました(アモス7:12,13)が、繁栄していた北王国は滅んでしまいました(王下17章)。現代は人類が強大な力を持ち、自然を思うままに利用して省みることがありません。この状況は北王国に似ているといえます。気象災害や感染症の流行は滅びの前兆かもしれません。

キリスト者は力がないにもかかわらず神が御心のままに選ばれ、相続者としてくださいました(エフェ1:11)。私たちは相続者として主なる神を心から賛美できるように(エフェ1:6)、神である主に執り成しをしなければなりません。

私たちは力のなさを神である主にお詫びしながら、すべての被造物と共に主を讃えることができる状況になるように祈り求めていきたいと思います。主が私たちの小さな取るに足らない働きを用い、滅びから救い出してくださいます。

 

弱さの中に恵みあり 2021年7月8日 聖霊降臨節第7主日

エゼキエル書2章1~10節、
コリントの信徒への手紙二12章6~10節
説教者:関義朗牧師

パウロは良い家柄に生まれ、当時の最高の指導者のもとで学び、ユダヤ人としての信仰心に篤い非の打ちどころのない人物で、人々から尊敬されていました。そのパウロが復活のイエス様に出会い、それまで強さと思っていた家柄、学歴、地位などをすべて損失だとして捨て去り、福音を宣べ伝える使徒となりました。

使徒となってからパウロは持病を抱え、苦労の連続でした。しかしパウロは主から「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられて、福音を宣べ伝えるのは自分の力ではなく、主からの恵みであることを悟りました。イエス様ご自身がこの世で一番弱くなり、人々の根源的な罪を負われました。人は弱くて何もできない時にこそ主の支えに気づきます。

この世のものを追い求めるのではなく、キリストを求め続けるならば、わたしたちに与えられている恵みに気づき 平安が与えられます。

 

神の恵みを渡す 2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日

詩編49編2~13節、
コリントの信徒への手紙二8章7~15節
説教者:関義朗牧師

詩編は「富の力を誇る人々がどれだけ栄えようとも神から離れているのだから彼らの力を恐れる必要はない。その人々が喜びとするような幸福は夢のように過ぎ去り、消え失せる。人が神と共にあるなら、神はその人たちを守り、最後には救い出される」と詠います。

パウロは私たちに慈善の業を勧めています。慈善は献金やボランティアをすることではありません。その根底にあるのは哀しみの共有、あるいは痛みの共有です。キリストは私たちの哀しみをご自分の哀しみとして担ってくださりました。人間にはどうしようもない哀しみ、一人一人が抱いている哀しみを痛いほどご自分のものとして感じられたのです。

「慈善の業」という言葉は原典では「恵み」と書かれています。イエス様の恵みを知った私たちはその恵みを人々に渡していくことへと向けられているのです。ベテル教会は集う人が少なく力がなくても、私たちにできる慈善の業を為していきましょう。

 

高ぶる思いを鎮める神 2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日

ヨブ記38章4~11節
コリントの信徒への手紙二5章14~17節
説教者:関義朗牧師

ヨブは敬虔な人でした。それでも、ヨブは親友と議論する間に神を知っているという高ぶる思いを持ってしまいました。神はそのことを指摘し、ヨブを叱りました。高ぶる思いはどのようにしたら鎮めることができるでしょうか。

コリントの信徒たちには高ぶる思いがあり、教会は論争に明け暮れていました。パウロはこの信徒たちにキリストの十字架を思い出させました。キリストが私たちのためにどれほどの無償の愛で私たちを愛されたかを覚えるならば、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるしかなくなります。

高ぶる思いはキリストの十字架の愛によって鎮められ、人は新しくされます。この世界は人間同士が所有権を争っていますが、世界の全ての所有者は神であります。人は神に許された領域を知りそれに満足することを覚えなければなりません。そうすれば神は私たちを祝福し、私たちにも、この自然にも豊かなものを与えてくださるでしょう。

 

子どもを守るイエス様 2021年6月13日 こどもの日(花の日)

申命記11章13~21節
マルコによる福音書5章35~43節
説教者:関義朗牧師

子どもを放任することも、親の夢を実現する手段とすることも子どもを愛しているとは言えません。子どもを愛し、教え諭すということを主なる神はどのように語っているでしょうか。

主はすべての人に対して「私の戒めに聞き従い、主である私を愛し、仕えるならば、あなたたちは祝福される」と言われます(申11:13-18)。主は、出エジプトやキリストの十字架と復活に象徴されるように、私たちを徹底的に愛し、社会や人の内部にある罪の束縛から救い出して自由にしてくださいます。その主を愛し、仕えることは私たちが自由であることの保証なのです。主はこのことを私たちの経験を通して、子どもに教え、いつでも語り聞かせなさいと命じます。

イエス様が少女の手を握って生き返らせた出来事(マルコ5:35-43)から、イエス様は子どもを大切にし守っておられることがわかります。子どもはこのような主を一途に愛するのです。私たちはこの主に倣い、子どもを愛し、私たちに現れた主の恵みを教えたいと思います。

 

命の水を運ぶ 2021年6月7日 聖霊降臨節第3主日

出エジプト記24章3~8節、
マルコによる福音書14章12~16節
説教者:関義朗牧師

除酵祭は出エジプトを記念して一週間行われるお祭りで、その初日に過越の食事をします。イエス様は過越の食事の準備のために弟子たちに「水がめを運んでいる男に出会うから、その人について行きなさい。」と言われました。水がめを運ぶ人というのは実に象徴的です。その人について行けば、主はあなたが望むことをきちんと用意してくださるというメッセージです。

ある人は過酷な環境の中で生きていたにもかかわらず、主に「ゆるし」を執り成す人生を送りました。自分の都合より神の都合を優先する人の周りには「平和」がありました。この人たちは出会った人々に神の御心を届け、望むことが用意されているところに連れて行ってくれる人たちでした。無名の人々が主の御心を生きていることを覚えます。

私たちは人生の中で「水を運ぶ人」に出会わせていただき、私たちもまたそのような人にならせていただきたいと願います。主の御心を行う人は幸いです。

 

父と御子と聖霊なる神 2021年6月1日 聖霊降臨節第二主日・三位一体主日

申命記4章39~40節
ローマの信徒への手紙8章14~17節
説教者:関義朗牧師

人は経験や能力で神を知ることはできません。神の方から預言者にご自身を現わされ、私たちを導かれました。そして御子イエス様がこの世に遣わされてからは聖霊が私たちに神を指し示し、父、子、聖霊の愛の中に入れてくださいました。

私たちは朽ちる存在でありながら、神の養子とされ、神の性質を受け継ぐものとさせていただきました。神の子となったとは超能力を身につけたとか、罪を犯さなくなったということではありません。それは無償の愛、消えることのない希望、そして永遠の命を受け継いだということです。財産や地位や格式では人は満たされません。上には上があってどこまでも不足を感じ、一方でそれらを失う不安に怯えなければなりません。

私たちは相変わらずおっちょこちょいで、言葉が足りず、自分勝手ですが、それにもかかわらず神の相続人として柔和でいられるのです。

 
1 2 3 12 »

年別アーカイブ

  • facebook
PAGETOP
Copyright © 日本基督教団 ベテル教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.