東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

キリストは天に 2021年5月16日 復活節第7主日・主の昇天記念礼拝

使徒言行録1章1~11節
マルコによる福音書16章14~20節
説教者:関義朗牧師

別れは悲しいことですが、新しい出会いが待っています。新しい出会いによって、私たちは新しい自分に気づき、人生が豊かになっていきます。

イエス様が天に上げられたことは、福音宣教の業が使徒たちに委ねられた出来事でした。主は私たちの目には見えなくなってしまいましたが、父なる神の右でこの世界を掌っておられます。
主は使徒たちや私たちを突き放して宣教の業に送り出すのではありません。今でも主が先頭に立って私たちを用いて救いの業を推し進められています。

私たちは主の恵みを語らずにはいられません。それを語る時、私たちは喜びに満たされるのであります。私たちは奴隷のように語らさせられるのではなく、聖霊に満たされて、私たちに現わされた主の言葉と業を語らずにはおれません。宣教の業はどんな困難や無関心があろうとも進められていきます。

 

母の愛と神の愛 2021年5月10日 復活節第六主日・母の日

レビ記19章1~3節、マタイによる福音書12章46~50節
説教者:関義朗牧師

母の日は教会で始まりました。母の日のきっかけとなった女性は教会学校で長年、多くの子どもたちを愛し、主のことを伝えていました。この女性は子どもたちの母でした。肉親でなくても子どもを愛し、主のことを伝える女性は母なのです。

 

本日のレビ記19章3節には『父と母とを敬いなさい。』と書かれています。その理由は「私たちが聖なる者になるため」(2節)です。一人ひとりが聖なる者となるだけでなく、信仰共同体(教会)が聖なる者となるように命じています。教会は多くの「母」や「父」が子どもたちに主を伝える場所です。

 

たとえ肉親であっても子どもに愛情を注がず、神を指し示さない人よりも、子どもたちに愛をもって接し、神を指し示す人、すなわ天の父の御心を行う人が母であり父や兄弟姉妹です(マタイ12:50)。教会ではそのような人たちを敬い、またそのような人たちは敬われるのです。

 

豊かな人生の鍵 2021年5月3日 復活節第5主日

使徒言行録9章26~31節、
ヨハネによる福音書15章1~8節
説教者:関義朗牧師

イエス様は『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』と教えられました。この「豊かな」とは「神の無償の愛で心が満たされていること」です。ぶどうの枝がぶどうの木から栄養をもらって大きくて甘い実をつけるように、私たちはイエス様から神の無償の愛をもらって豊かに満たされます。この愛は私たちが自然に持っている「人を好きになる愛」を超えるもので、人がそれをつくり出すことはできません。この愛が私たちの霊を強め、豊かな人生を与えてくれるのです。

実際には私たちは欲望から自由ではなく乏しくさせられています。しかし今は誘惑に負けても、イエス様につながって神の愛を注いでいただき続けるなら、その人は欲望から自由になっていき、満ち足りた豊かな人生を歩むことが出来ます。

 

良い羊飼い 2021年4月27日 復活節第4主日

使徒言行録4章8~12節
ヨハネによる福音書10章11~18節
説教者:関義朗牧師

イエス様が言われる「良い羊飼い」とは羊の面倒をよく見てあげる人という意味ではなく、羊のことを良く知っていて愛している人です。これは神であると私たちの関係を比喩として表しています。私たちは主を必要としていますが、主も私たちを愛する対象として必要としてくださっています。私たちは居ても居なくても良い存在ではなく、主が必要としてくださる存在なのです。この関係において主は私たちを徹底的に守ってくださいます。

使徒ペトロは旧約聖書を引用して、は建物の一番基礎の石であると譬えました。主は十字架で死なれたけれどもよみがえられて、今もこの世界におられます。

この主以外に救いはありません。救われるためには主だけではなく、お金も食べ物も支援してくれる人も、あれもこれも必要だ、といろいろと駆け回っても得るものはありません。主を信じ、主の救いにあずかることが、救われて自由になる道なのです。

 

平安があるように 2021年4月19日 復活節第3主日

使徒言行録3章13~19節、
ルカによる福音書24章36~48節
説教者:関義朗牧師

人は心と体の健康が保たれ、霊が強められて、はじめて充実した日々を送ることが出来ます。そこに脅威や不安があると霊が弱まり、心が病んでいき、それが体にも表れてきます。

イエス様が十字架にかけられて死なれた後の弟子たちの状態もそのようであったことでしょう。家の外に出れば周りは自分たちを捕らえようとしている人たちばかりといった状況で家の中に潜んでいました。そこに復活したイエス様が来て「あなた方に平和があるように」と語りかけられました。

今の私たちは、多少は外を出歩くことが出来ていますが、状況はこの時の弟子たちと似ています。復活は容易には信じられない出来事ですが、これを信じるならば主なる神が共にいて守り導いてくださるということが、その人にとって真実のものとなります。私たちは信じる者へと変えられるように祈りたいと思います。キリストはこの祈りに応えて、平安をお与えになります

 

復活の主が来られる 2021年4月13日 復活節第2主日

イザヤ書65章21~25節、
ヨハネによる福音書20章19~23節
説教者:関義朗牧師

緊急事態宣言が解除されたのもつかの間、また少しづつ感染者が増えてきました。私たちは生命の危険から逃れるために人と会わないようにして感染リスクを最大限に下げるのか、それとも感染リスクを恐れないで行動の自由を求めるのか、といったジレンマに陥っています。

命の危険にさらされて恐れと不安の中にいたという意味ではイエス様の弟子たちも同じでした。そこに復活のイエス様が入って来られ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエス様がこの言葉を発した時、その場にいた人々から恐れと不安が消え、喜びがあふれました。

イエス様は弟子たちに平和を作り出しなさいと命じました。終末における主の平和は人間だけでなく世界全体を包むものです(イザヤ65:25)。私たちには復活の主イエス様が共にいてくださいます。そして平和を実現する働きへと押し出されています。

 

主の復活の喜び 2021年4月7日 復活節第1主日(イースター)

イザヤ書55章1~5節
ヨハネによる福音書20章1~9節
説教者:関義朗牧師

イースターはイエス様の復活をお祝いする祝祭日です。世界はコロナ禍の中にあり、世界の各地で紛争が続いている状況でイエス様の復活をお祝いするのは不謹慎だと思われる人がおられるかもしれません。しかしキリスト者は世界が闇に覆われているような状況だからこそ主の復活に希望の炎を燃やすのです。

弟子はお墓に「入って来て、見て、信じました」(ヨハネ20:8)。これは、神の王国に入り、心の目で神を見て、イエス様を信じたことを表わしています。イエス様の弟子がイエス様の復活を信じ、そこに神を見ることができたのは旧約聖書に暗示されていることによってでした。

今日において、それは「礼拝に集う人々の群れに入り、聖書の言葉を聞いて賛美することによって信じること」です。その場所は神がおられるのを感じることのできる場所です。そこには今も復活の主が共におられます。

キリスト・イエス様の復活は暗い闇のような世界に輝く光です。私たちはイエス様の復活の希望によって支えられて、この世界を神の国にするために喜んで働くことができるのです。これこそが主の復活の喜びであります。

 

イエス様の死 2021年3月29日 受難節第6主日・棕櫚の主日

イザヤ書50章4~7節
マルコによる福音書15章21~39節
説教者:関義朗牧師

イエス様の死は重罪を犯した人が受ける十字架の死でした。蔑まれ罵られた後、イエス様が息を引き取る前に叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は悲痛に響きます。父なる神からも捨てられるという苦痛を味わったのですが、これは人間の一番大きな苦しみをイエス様も味わったことを示しています。

父なる神はお答えにはなりませんでしたが、この場におられました。それは神殿の垂れ幕が神によって真っ二つに裂かれたことに表わされています。私たちは神と親しく交わることができるのに、人は神と人との間にいろいろな障壁を築き、神に出会えないようにしてしまいました。それは律法を厳格に守るという形式主義に表れていました。その隔ての幕がイエス様の十字架の贖いによって裂かれたのです。イエス様が救ってくださることを信じて私たちは人生を歩んでいくことができるようになりました。イエス様が父なる神に執り成してくださいます。

私たちは今、コロナ禍の中にいてまるで全地が闇に覆われているかのように思えます。聖火リレーも桜も心から喜ぶことができません。いつこのような闇から抜け出せるのか分からない状況の中にいます。

しかし本当の闇は世界が救い主なる神を捨てたということです。イエス様は捨てられ、恥を受けて死なれました。人々は神の子を嘲笑し、十字架につけました。このことこそ本当の闇です。

今日の世界がいかに神の御旨から遠いところにいるかを考えるならば、今こそ百人隊長のようにイエス様を神の子、救い主と告白しなければなりません。そして神に赦しを願い、救いを求めなければなりません。

 

神である主の栄光 2021年3月21日 受難節第5主日

エレミヤ書31章31~34節
ヨハネによる福音書12章20~33節
説教者:関義朗牧師

過越祭にギリシア人がはるばるイエス様に会いに来ました。奇蹟の噂を聞き、それにあやかりたいと思ったのかもしれません。イエス様は彼らに奇蹟を見せるのではなく、「栄光を受ける時が来た」と答えられました。それはイエス様が地上での働きを続けることによって人々から栄光をお受けになるのではなく、むしろ十字架につけられて罪人として死ぬことによってイエス様を信じる人々がいのちを得るということを意味しています。イエス様は私たちのために生き、そして死なれました。

イエス様は私たちにも自分のためではなく隣人のために生きるよう勧めています。自分を生かすのは自分ではできなくて、隣人に生かしてもらって生きているのであり、その基には神がおられます。

簡単な生き方ではありませんが、私たちが「御名の栄光を現してください」という思いになるまで心の葛藤や恐れを祈ることで、主に道を示していただけるのです。私たちには三浦綾子さんの小説『石狩峠』のモデルとなった長野政雄さんのような生き方の可能性も示されています。

イエス様の十字架は父なる神がイエス様にお与えになった栄光でした。それは自分本位の傲慢な生き方をする、悪魔に支配されたこの世に勝利された救い主なる神の姿です。

長野正雄さんに関する参考:【ここをクリック

 

闇と光 2021年3月15日 受難節第4主日

歴代誌下36章11~21節
ヨハネによる福音書3章11~21節
説教者:関義朗牧師

世界の紛争や国内の大震災と原発事故やコロナ禍で、苦しんでいる人々が大勢います。旧約のユダ王国の民も国が滅ぼされ、捕囚として70年を過ごさなければなりませんでした。そしてイエス様の時代のユダヤの民はローマ帝国に苦しめられていました。世界はいつの時代も闇の中にるのではないかと思わされます。

主なる神はそのような闇の中から人々を救い出すことを望まれました。それは「御子イエス様を信じて、生まれ変わること」によって実現します。神の御子イエス様が私たちの傲慢や自己中心の罪を贖うために十字架につけられ死なれました。

この世界は闇の中にいます。しかし光はこの世界に来ました。私たちは神から生き方を変えるように促されています。私たちが主なる神を信じ、自分を神に明け渡す生き方をするならば、永遠の命を得ることができ、神の国を造るための働きに参加させていただけます。

 
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