東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」は「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

神の言葉の成就 2022年1月23日 公現後第3主日

ネヘミヤ記8章5~6節
ルカによる福音書4章16~21節
説教者:関義朗牧師

旧約の預言者イザヤは救い主が現れて貧しい人々に福音が告げられると預言しました。その救い主こそイエス様です。イエス様ががこの世に来てくださったことが神の言葉の成就なのです。世界はいまだに神の平和が達成されていませんが、時が満ちれば神の力が明らかになり神の平和が達成されます。

私たちは神さまから、神の御旨に従って生き生きと日々を送るという自由を与えられました。この生き方は満たされた生き方です。このことを別の言葉で表現するならば、いつ死んでも満足な生き方です。

どう生きるかが私たちに問われています。イエス様に従って、神の愛を受けて周りの人々と仲良く暮らすことを目指せば、満ち足りた生が与えられます。これは私たちの努力だけでは成し遂げることができませんが、祈り求めるならば、イエス様は私たちが満たされた生を送ることが出来るようにしてくださいます。

 

神さまに従う 2022年1月18日 公現後第二主日

エレミヤ書1章4~10節
マルコによる福音書1章14~20節
説教者:関義朗牧師

私たちが生まれてきたのには訳がある、私たちが生きているのには意味があります。預言者エレミヤは生まれる前から神に聖別され役割を与えられていました(エレ1:5)。神は人の能力や知識とは無関係に、一番ふさわしい人に役割を与えられます。若者で聖書の知識も権力もない人に御言葉を告げる役割を与えられたことはそれを示しています。そしてエレミヤは生涯を主の御言葉を告げることにささげました。

漁師たちがイエス様に招かれると直ぐにすべてを捨ててイエス様に従ったのも同じでした。人間的には薄情で無責任に見える漁師たちの行動は彼らが役割に目覚めたからにほかなりません。

今日の御言葉は私たちに語られた言葉でもあります。私たちに与えられた役割は人それぞれです。目の前の成績や業績を上げることに縛られることなく、神から与えられた役割を果たしていくことを心掛けたいと思います。勉強や自己研鑽は役割を果たすための準備です。

 

イエス様の洗礼 2022年1月9日 降誕節第3主日・公現後第1主日

イザヤ書40章9~11節
ルカによる福音書3章21、22節
説教者:関義朗牧師

イエス様が洗礼をお受けになられたのは、人が受けるものはすべて受けるという意思と人々を救うという決意の現れでした。そしてその洗礼はご自分の十字架の死と復活を暗示しています。

私たちが洗礼を受けるということは、このイエス様の恵みにあずかるということです。主は悔い改めて洗礼を受けた人を守り、私たちの歩みを神の道へと導いてくださいます。もし道に迷えばどこまでも探し求めて救ってくださいます。

安心して感染症の危険のあるこの世の中で暮らしていきましょう。感染症に罹らないように行動することは大切なことです。しかし感染の不安に怯えていても感染のリスクが減るわけではありません。主が感染症を治めてくださるように祈りつつ、主の御旨に委ねて日々を送る方が安らかに日々を送ることが出来ます。「私は洗礼を受けている」という言葉を口にするならば、この言葉は私たちを勇気づけ、辛い思いから引き上げてくれます。

 

主なる神に会う 2022年1月3日 降誕節第2主日

イザヤ書60章1~6節
マタイによる福音書2章1~12節
説教者:関義朗牧師

東方から来た占星術師たちは馬小屋の中にいるイエス様を見つけ喜びにあふれました。彼らが見たイエス様は小さな存在でしたが、その姿につまずくことなくイエス様を神の御子として拝み、ささげ物をささげました。彼らはその魂に神の平和、平安を感じ取ったからに違いありません。神の御子イエス様に会うならば私たちの魂にも平安が与えられます。

ヘロデ王はこの幼子を殺そうとし、学者や祭司長は無視しました。占星術師たちはイエス様に会いに行くことによって、救い主を見つけました。

ベテル教会は質素な造りで人々の目を引くものはありません。少数の参列者で礼拝をおこなっています。しかしイエス様はこの場所にいてくださり、私たちに会ってくださいます。私たちは喜びにあふれて今日ここに来ました。目には見えなくても魂に感じられるイエス様の平安がここにあります。希望をもって2022年を歩んでいきましょう。

 

神の家族 2021年12月27日 降誕節第1主日

サムエル記上1章20~28節
ルカによる福音書2章41~52節
説教者:関義朗牧師

イエス様が12歳の時のエルサレム巡礼である出来事が起こりました。イエス様が巡礼団の中に見つからなかったのです。両親はエルサレムに引き返しながらイエス様を探しました。するとイエス様は神殿の境内で多くの学者たちの真ん中にいました。母マリアがイエス様を叱ったところ、イエス様は「私が父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と答えました。神の御子なるイエス様は神の御言葉を聞くことができる所を自ら選び取られたのです。母マリアはその言葉の意味が理解できませんでしたが、そのことを心に留めました。

 

私たちも洗礼を受け神の子(養子)としていただきました。だから私たちも少年イエス様のように神の家にいることを自ら選び取り、この世の誘惑に惑わされることなく、神の道を歩みたいと思います。信仰の家族は血縁によってではなく、イエス様が指し示される父なる神を信じる信仰によって結ばれています。

 

飼い葉おけに眠る御子 2021年12月20日 クリスマス礼拝

イザヤ書9章1~6節
ルカによる福音書2章1~14節
説教者:関義朗牧師

預言者イザヤは人々に「闇の中を歩む民は大いなる光を見た」(イザヤ書9:1)と語りました。この民は譬えとして私たちの心の中の闇を表しています。パウロはその闇を「私は何と惨めな人間なのでしょう」(ロマ7章)と嘆きました。その闇に光を当て、私たちを善と悪とに引き裂く苦しみから救ってくださるのはクリスマスに生まれたイエス様です。

イエス様は馬小屋の中で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。イエス様が惨めな姿でこの世に誕生したことは、神が闇の中を歩む人々を心にかけ、光のもとを歩むようにしてくださることの徴でした。私たちの惨めさや悲しみのすべてをイエス様は知っておられます。私たちの心の奥にある闇にイエス様は光を当て、悪さえも包み込んで私たちの良心を誘惑しないようにしてくださいます。

この御子こそ神さまが私たちを愛してくださることの徴であり、神さまの最高のプレゼントです。

 

主なる神が来られる 2021年12月13日 待降節(アドベント)第3主日

ゼファニヤ書3章14~17節
ルカによる福音書3章15~18節
説教者:関義朗牧師

水で身を清めることと洗礼とは意味が異なります。洗礼はヨハネのような神に召された人が、悔い改めた人を水に沈め(死)、また引き上げる(生)という行為によって、神がその人の罪を赦してくださることを見える形でその人に示すものです。

人は心の中では神を必要としているにもかかわらず、滅びるものに頼りながら人生を模索しています。しかし誰でも御言葉を通して生き方を変える決心をして洗礼を受けるならば、希望に満たされて、どんな時も(死にゆく時も孤独の中にではなく)神と生きることが出来ます。

預言者ゼファニヤは「その日には、神はあなたがいるから喜びの歌を歌って楽しまれる」と告げました。これがイエス様のご降誕、クリスマスの喜びです。

洗礼者ヨハネがすべての人に、神と共に罪赦されて生きる徴としての洗礼への道を開き、イエス様が聖霊と火によってそれに保証を与えてくださいました。

そのイエス様のご降誕の記念日であるクリスマスはすぐ近くに来ています。

 

主の道を備えよ 2021年12月8日 待降節(アドベント)第2主日

イザヤ書40章1~4節
ルカによる福音書3章1~6節
説教者:関義朗牧師

イエス様が宣教を始める少し前に、荒れ野で洗礼者ヨハネに神の言葉が降りました。そこで彼は人々に、罪を悔い改めて神の元に帰るように宣べ伝え始めました。ヨハネは洗礼を授けるだけではなく、イエス様の到来を告げ知らせました。それが「主の道を備えよ」という預言者イザヤの言葉(イザヤ40:1-4)です。洗礼者ヨハネはイエス様を指し示す働きを与えられました。主の道とは信仰の道です。

今、私たちは新型コロナウイルスという目に見えない恐怖に怯えながら、いろいろな制約の中で日々を過ごしています。先行きどうなるのか見通せない状況です。しかし神はこの現実の中に突然介入して来られます。その徴が主のご降誕、クリスマスです。私たちの目指す目標は神の国です。毎日は荒れ野を進むかのように先が見えませんが、私たちには目標がはっきりと捉えられているのです。神の国を目指して主の道を備えつつ、信仰の家族と共に日々を送っていきたいと思います。

 

再臨を待ち望む 2021年11月28日 待降節(アドベント)第1主日

エレミヤ書33章14~16節
ルカによる福音書21章25~28節
説教者:関義朗牧師

神は預言者エレミヤを通して「見よ、わたしが恵みの約束を果たす日が来る」と告げました。その約束はイエス様のご降誕によって成就しました。それがクリスマスの出来事です。救いはイエス様の誕生によって既にこの世界に現れました。
そしてイエス様は、復活されて天に昇られた後にご自分が再びこの世界に来て救いを完成させる、と約束されました。
その時には「天体が揺り動かされる」ほどの驚愕の出来事が起きると告げられています。この言葉は私たちに恐怖を与えるものですが、これは世界が新しく創造されることを語っているのです。イエス様が来られると、この世界は破れや不完全なものが贖われ完全な世界になります。大切なことは、イエス様は再び来てくださるという約束は確実である、ということです。
待降節(アドベント)のこの時期に、私たちはイエス様の誕生日であるクリスマスを待ち望むとともに、イエス様が再び来てくださる日を待ち望むのです。

 

カナの婚礼 2021年11月22日 降誕前第五主日・収穫感謝祭

アモス書9章13~15節
ヨハネによる福音書2章1~12節
説教者:大久保一秋牧師

本日は大久保一秋牧師(狭山教会)をお招きして礼拝をおこないました。

「神の家」を意味するベテルという名前は、旧約聖書のヤコブの夢にちなんでいると伺いました。ヤコブは父イサクをだまして逃亡する途中、夢を見ました。天まで届く階段を、天使が上り下りする夢でした。
これについて、ベテル教会初代牧師の熊谷先生は「完全なものだけを神の家(ベテル)とするのではない。不完全なものをも神の家としたもう神」と、語りました。人間は不完全です。その不完全な器に、神さまは完全な愛を注がれます。
カナの婚礼でぶどう酒がなくなった時、主イエスは「六つ」の水がめを、ぶどう酒で満たしました。しかし、聖書では「七」が完全数です。七つ目の水がめは、どこにあるのでしょう。
七つ目の水がめは、私たちの心の最も深いところにあります。そのことに早く気づきなさいと、神さまは招いています。神さまは、そこに完全な「神の愛」を注いであげたくて仕方ないのです。

 
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