苦しみを受ける主 2022年3月20日 受難節第3主日
マルコによる福音書8章27~33節
イエス様は「人の子は多くの苦しみを受け、排斥されて殺される」と予告されました。人の子とは新しいアダム(詩編8:5・ヘブル語原典/1コリ15:45)です。最初のアダムが蛇のイメージで表される罪に捕らえられて神から離れたのに対して、新しいアダムはすべての人を罪から解放し神に立ち帰ることができるようにされました。
神は私たちを無償の愛で愛しており、神の全能は神(イエス様)ご自身が人間に捨てられるという誰も考えることのできない方法で、私たちを救ってくださいました。イエス様の生涯にわたる苦しみ、特に最後の1週間の苦しみを知れば、神の無償の愛が私たちを罪から解放させてくださることを確信することができます。
破壊は一瞬にしておきますが長続きしません。イエス様に贖われた無名の多くの人々は神の無償の愛に感謝しつつ、地道に忍耐強く、壊されたものを修復し和解を広げていきます。私たちもその一人に加えられています。
闇の中で輝く神の栄光 2022年3月13日 受難節第2主日
ルカによる福音書9章28~36節
イエス様はエルサレムに入り受難をお受けになる直前に、弟子三人を連れて山に登られました。イエス様が熱心に祈られると、イエス様のお姿が真っ白に輝きました。これは父なる神と結ばれて完全にひとつであったことのしるしです。この暗い闇の中で神の栄光は輝きを与えます。この輝きは私たちにも及びます。
私たちが負う十字架は放り投げることができません。その十字架はとても重いものに感じます。しかしそれを軽くする方法があります。イエス様に十字架の一端を担っていただくのです。十字架を負うことで気づく喜びや人生の充実があります。
神は言われます。「これは私の子、選ばれた者。これに聞け。」と。御言葉を読みイエス様の言葉に耳を澄ませ、神に祈ることによって不安や恐れが消え去り、道が示されます。今、世界は不安と恐れの中にあります。世界の人たち、特に戦争やテロで犠牲になっている弱い人々のために祈ります。
誘惑を克服する 2022年3月6日 受難節第1主日
ルカによる福音書4章1~13節
3月2日(灰の水曜日)から受難節が始まりました。私たちはこの時を悔い改めの期間として過ごします。平和への希求や祈りは切実であったかどうか、隣人の呻きに耳を傾けていたかどうか、そして自分自身が万軍の力強い御手でこの世を治めたもう神に信頼し祈り求めていたかどうかをこの時期に顧みたいと思います。
イエス様が悪魔の誘惑をお受けになられた時、聖書の御言葉によって誘惑を克服なさいました。御言葉で誘惑された時も聖書全体が証しする父なる神の御心である無償の愛を第一に考えて、ご自分の利益を退けられました。
私たちは日本キリスト教団の『平和を求める祈り』を共に祈り、主の御心にかなうことを為していきたいと思います。
私たちは希望を失うわけにはいきませんし、神に信頼している限り希望は失われません。世界中で抑圧されている人々のために祈ります。神が平和を回復してくださいますように。
言葉と思い 2022年2月28日 公現後第8主日
ルカによる福音書6章37~42節
イエス様は私たちに、人を裁かず、罪に定ず、赦し、与えるようにと語り、私たちを戒められました。そうすれば私たちは裁かれず、罪に定められず、赦していただき、与えていただけると言われます。誰が赦し与えてくださるのか、それは神さまです。
心の思いは言葉となって現れます。私たちが人を裁かず赦すというのは心からのものでなければなりません。詩編19編には「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように」(15節)というダビデ王の祈りが書かれています。
私たちは完全ではありません。そのことを認めることは大切なことです。私たちが素直になり、知りつつもまた知らずに犯してしまった罪を悔い改めるならば、イエス様は父なる神さまに私たちを執り成してくださいます。そして父なる神からいただく無償の愛を受けて、私たちは裁かず赦し合う生き方へと押し出されていきます。
嵐の中を進む 2022年2月20日 公現後第7主日
マルコによる福音書4章35~41節
舟は私たちの人生、湖はこの世の象徴です。舟は事もなく進んでいくようですが、舟は舟である限り絶対に安全ということはないのです。私たちは自分で漕いで目的地へ行こうとしますが、いつも危険が隣り合わせです。私たちは何と身も心も壊れやすいことでしよう。しかも嵐は突然襲います。こちらがいくら注意していても、危険は向こうからやって来ます。必死で手立てをつくしても、手に余る嵐が舟を飲み込もうとするのです。
イエス様はともを枕に眠っておられます。イエス様にとっても嵐は嵐に違いありませんが、世界は神様の支配しておられるところで、嵐の背後にその支配を見て、身を委ねておられるのです。弟子の悲鳴に起き上がり、「黙れ、静まれ」と湖を叱られ、「まだ信じないのか」と言われます。
湖を舟で渡る私たちにとって嵐は、イエス様が一緒にいて下さることが明らかになる時です。私たちの信じているイエス様がどういうお方なのかが明らかになる時なのです。
幸いの御言葉 2022年2月16日 公現後第6主日
ルカによる福音書6章20~26節
イエス様は神は貧しい人、飢えている人、悲しんでいる人、福音宣教のため迫害されている人に「あなた方は幸いである」と告げています。この言葉は気休めではありません。神を忘れ欲望のままに日々を送っている人より、神を信じて神に求める人の方が幸いです。私たちに与えられているものはすべて神からのものだからです。
貧しいことや悲しんでいることは神に見捨てられていることではなく、神はそのような人々に目を留めて救おうとなさっており、そのために人々を用いておられます。人は何によって生きるのか、それは神の愛によってです。文豪トルストイはこのことを短編小説に書きました。
イエス様はそのような人々に対する神の愛をご自分の苦難と十字架の死をもって私たちに示してくださいました。私たちはこの神を讃えてこの1週間も元気に生き生きと過ごしたいと思います。
招く御言葉 2022年2月8日 公現後第5主日
ルカによる福音書5章1~11節
恵みの御言葉 2022年2月2日 公現後第4主日
ルカによる福音書4章21~30節
イエス様が語る言葉は人を束縛から解放し、置かれている状況を見えるようにし、人を自由にします。ところがナザレの人々はイエス様を子どもの頃から知っているという思い込みによって、イエス様の言葉を受け入れられませんでした。知っていると思っていることを、自分が受けた驚きによって見直すことができたなら、彼らはイエス様の御言葉を受けることができたでしょう。そして変われたはずです。
預言者は歓迎されない、とは人々に快い言葉を語るのではなく神の言葉を語るからですが、イエス様はその言葉を用いてご自分の言葉が神の言葉であることをお示しになりました。
神の御言葉は「恵みの御言葉」です。その御言葉に耳を傾けるならば、私たちは自分の中にある傲慢な思いが平安な思いに変えられ、神にすべてを託し、満ち足りた日々へと生き方を変えられます。私たちは奇跡によってではなくイエス様の恵みの御言葉により救われます。
神の言葉の成就 2022年1月23日 公現後第3主日
ルカによる福音書4章16~21節
旧約の預言者イザヤは救い主が現れて貧しい人々に福音が告げられると預言しました。その救い主こそイエス様です。イエス様ががこの世に来てくださったことが神の言葉の成就なのです。世界はいまだに神の平和が達成されていませんが、時が満ちれば神の力が明らかになり神の平和が達成されます。
私たちは神さまから、神の御旨に従って生き生きと日々を送るという自由を与えられました。この生き方は満たされた生き方です。このことを別の言葉で表現するならば、いつ死んでも満足な生き方です。
どう生きるかが私たちに問われています。イエス様に従って、神の愛を受けて周りの人々と仲良く暮らすことを目指せば、満ち足りた生が与えられます。これは私たちの努力だけでは成し遂げることができませんが、祈り求めるならば、イエス様は私たちが満たされた生を送ることが出来るようにしてくださいます。
神さまに従う 2022年1月18日 公現後第二主日
マルコによる福音書1章14~20節
私たちが生まれてきたのには訳がある、私たちが生きているのには意味があります。預言者エレミヤは生まれる前から神に聖別され役割を与えられていました(エレ1:5)。神は人の能力や知識とは無関係に、一番ふさわしい人に役割を与えられます。若者で聖書の知識も権力もない人に御言葉を告げる役割を与えられたことはそれを示しています。そしてエレミヤは生涯を主の御言葉を告げることにささげました。
漁師たちがイエス様に招かれると直ぐにすべてを捨ててイエス様に従ったのも同じでした。人間的には薄情で無責任に見える漁師たちの行動は彼らが役割に目覚めたからにほかなりません。
今日の御言葉は私たちに語られた言葉でもあります。私たちに与えられた役割は人それぞれです。目の前の成績や業績を上げることに縛られることなく、神から与えられた役割を果たしていくことを心掛けたいと思います。勉強や自己研鑽は役割を果たすための準備です。