東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。
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年別アーカイブ:2021年

主なる神を拝む 2021年3月7日 受難節第3主日

出エジプト記20章1~17節
ヨハネによる福音書2章13~22節
説教者:関義朗牧師

十戒はもともと祭儀、すなわち礼拝の中で読まれたものでした。礼拝において現臨される神はイエス様が啓示された主なる神以外にはおられません。

神はいろいろな束縛から私たちを開放してくださるお方であり、私たちはその神を愛するがゆえに戒めを守り自由でいられます。もちろんこの十戒はどれも完全に守ることは難しいのですが、守ろうと努力することはできます。守れなかったからといって十戒を捨て去るのではなく、また守る努力をすればよいのです。イエス様が主なる神に執り成してくださっていますから、あきらめずに努力する道が開かれています。

主なる神を拝むというのは私たちの我がままを聞いてもらうものではありません。主なる神のみに依り頼むことです。たとえ試練を受けようとも、主なる神以外に私たちを救い出してくださるお方はありません。

 

 

赦されるために 2021年3月1日 受難節第2主日

創世記22章9~18節、
ローマの信徒への手紙8章31~34節
説教者:関義朗牧師

アブラハムが独り子イサクを犠牲として神に献げようとした物語(創世記22章)で、アブラハムが神の命令に従おうと決心したことは簡単なことではありませんでした。父が愛する独り子を屠ることの苦悩、そしてイサクの恐怖は想像することもできません。この物語を通して、イエス様の十字架の死の奥に父なる神の苦悩が垣間見えます。

 

イサクの物語は極限状態を描いていますが、私たちの人生にも突然の不幸が襲うことがあります。今のコロナのパンデミックもその一つです。私たちは試練を受けていますが、神はこの試練を逃れる道をも備えてくださっていると信じます。

 

その道は私たちがどのようにして生かされているかを確認し、新しい物語を創り出すことによって可能になるのです。その物語はすでに神が啓示してくださっているものの中にあります。私たちは希望を持って忍耐強く未来へと向かっていきたいと思います。

 

誘惑に打ち克つ信仰 2021年2月22日 受難節第1主日

マルコによる福音書1章12~13節、ペトロの手紙一・3章18~20節
説教者:関義朗牧師

受難節第1主日にあたりイエス様が荒れ野で誘惑者サタンから誘惑を受け、それに打ち勝たれた出来事に聞いてまいりたいと思います。

マルコが誘惑の具体例を示さなかったのは、イエス様がどのような誘惑にも父なる神との関係を失わず打ち克たれたことを示すためであります。イエス様は誘惑に捕らわれることなく父の御旨に従って受難の道を歩まれました。罪人として十字架にかかり、死んで陰府に捕らわれている人々にも福音を宣べ伝えられました(ペトロの手紙一・3章18~20節)。

私たちにとって誘惑は日常のいろいろな機会に訪れるものであることを、私たちは知っています。キリスト者に忍び寄る誘惑は高慢や怠惰の誘惑だけではなく、信仰につけ入るような誘惑が加わります(マタイ4章1~11節、ルカ4章1~13節)。信仰心が強い人ほどその誘惑に捕らえられてしまうものです。

イエス様はどのような誘惑にも打ち克ち、父なる神の御旨に従って私たちの罪を贖う十字架の道を歩まれました。私たちはこの主を信じて、誘惑に打ち克つ信仰を持って日々を過ごしてまいりたいと思います。

 

人の思いの浅はかさ 2021年2月16日 公現後第6主日

創世記3章16~19節
マルコによる福音書1章40~45節
説教者:関義朗牧師

イエス様は重い皮膚病に罹った人を深く憐れみ、身をかがめてその人に手を置き、「清くなれ」と言われて癒されました。しかし癒された人はイエス様の「誰にも何も話さないように」という注意を聞かず、大勢の人に語ってしまいました。その行為はイエス様の働きを邪魔してしまいました。

最近の出来事ですが、800キロの徒歩巡礼を体験した人は旅の疲れや食料が乏しい中で弱い自分と向き合いました。その中で、彼は「ただ、神に祈るしかない」という体験をしたと記しています。彼の体験は主の御心を問うことへと向かいました。

人は良かれと思い禁止されていることでも行ってしまう浅はかさを持っています。このことは主の働きを妨げることになることを教えられました。主の御心は私たちにははかり知れませんが、私たちを愛して導いておられることは確かです。その事に信頼して御言葉に従い日々を過ごしてまいりましょう。

 

癒していただく 2021年2月10日 公現後第五主日

ヨブ記7章1~7節
マルコによる福音書1章29~34節
説教者:関義朗牧師

人は思いもかけず病気になってしまいます。旧約聖書ヨブ記に登場するヨブは神の目に正しいとされる人でしたが、突然の不幸に見舞われ重い皮膚病に罹って眠ることもできなくなりました。ヨブは人生の不条理を嘆き、主に訴えています。神を語るのではなく、神と語ろうとしています。シモン・ペトロの姑も病気で臥せっていました。軽い病ではなかったでしょう。彼女が何を祈ったかは書かれていませんが、ヨブと同様であったかもしれません。

キリスト・イエスは姑の手を取り、彼女の苦しみ、悩み、痛みを、担われるような姿勢で癒されました。それはイザヤ書53章に書かれている苦難の僕の姿です。姑は元気を取り戻し、すぐに一同をもてなしたと書かれています。癒しは病気が治ることではなく生きる力を与えてもらうことです。

瞬きの詩人の水野源三兄や詩画集の星野富弘兄など、多くの人がこのことを証ししています。キリスト者になったからと言って、悪いことが起きないということはありませんが、叫びを上げるお方を知っています。キリストは決して信じる者を見捨てられず、心の叫びを受け止め、癒してくださいます。

 

まことの権威 2021年1月31日 公現後第4主日

申命記18章15~20節
マルコによる福音書1章21~28節
説教者:関義朗牧師

イエス様はカファルナウムの会堂で教え始められました。この教えには権威があったと書かれています。

律法学者は、神は人を裁くお方だと教えていました。それで人々は神の怒りに触れないように、神の目に正しいとされることを行うことに心を奪われてしまい、律法の規定を守ることができない人々を蔑み、疎外していました。

イエス様は、神は慈愛の神であり、その愛ゆえに自分から離れて迷っている人を救い、悪を働く人を裁く、ということを教えられました。これこそ神の権威によらなければ明かされなかった事柄です。

人は規則を厳格に守っても神の目に正しい人とはされません。神の前に自分は足りない者、誘惑に負けてしまう弱い者であることを素直に告白し、神に赦しを求めつつ、赦されて生きる人を神は正しい人とされます。

会堂で助けを求めた人は御子イエス様によって救ってもらいました。神に依り頼るならば、自分の力ではどうすることもできない力から解き放たれるのです。

礼拝動画:https://youtu.be/lqPEntycTHQ

 

福音を信じなさい 2021年1月24日 公現後第3主日

ヨナ書3章1~10節
マルコによる福音書1章14~20節
説教者:関義朗牧師

イエス様は「福音を信じなさい」と言われました。福音とは「良い知らせ」のこと。それは、神の国が近づいたこと、イエス様ご自身がこの世に到来したこと、そして神の恵みです。

福音を信じるということは神を信じるということと同じです。神がおられてこの世界で働いておられる、その神は私たちを無償の愛で愛して導いておられることを信じることです。

洗礼は神に呼ばれた人がそれに応えてキリストと歩むことを決心して受けます。この洗礼によって意識するかしないかにかかわらず、生き方を変えるようになります。それは自分中心の生き方から神中心の生き方に変わることです。

福音を信じることは難しいことではありません。見方を変えて生活してみることで、福音が喜ばしい知らせであることを知ることができるからです。神中心の生き方はその人を生かす生き方なのです。福音を信じること、このことが私たちを変えてくれます。

礼拝動画:https://youtu.be/YvO_rY3BS6k

 

来て、見てごらん 2021年1月17日 公現後第2主日

サムエル記上3章15~19節
ヨハネによる福音書1章35~42節
説教者:関義朗牧師

本日は召命について御言葉に聴きたいと思います。洗礼者ヨハネがイエス様を「神の小羊」(イザヤ書53章参照)と言ったのを聞いたアンデレともう一人はイエス様について行きました。二人はイエス様がどのようなお方かを知りたいと思ったのです。

イエス様は二人に「来て、見てごらん」(原典直訳)と言われました。この言葉は二人に行動することを促す言葉です。主を知りたいという願いは主の声に従うことで実現するということを教えてくださったのです。二人はイエス様について行き、イエス様の弟子となりました。ペトロ(岩)と呼ばれたアンデレの兄弟もアンデレの言葉に起こされてイエス様の所に行き、弟子となりました。サムエルも夢の中で主の呼びかけを聞き、養育者である祭司エリのもとへと行くことで、主の声を聞くことへと導かれました。

「来て、見てごらん」の言葉はキリストの招きの言葉です。その招きに応えて行動するならば、イエス様が神の独り子であり救い主であることを知り、神の無償の愛を体験するでしょう。

 

イエス様の洗礼 2021年1月12日 降誕節第三・公現後第一主日

イザヤ書55章8~11節
マルコによる福音書1章7~11節
説教者:関義朗牧師

イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂け、霊が降り、声が響いたというのは、イエス様の洗礼が特別のものであったということを表しています。

私たちは神の子であれば奇跡を行うという風に思いがちですが、この思いはサタンによる誘惑です(マタイ4:1-11)。神の栄光が現わされる時にのみ、その出来事は奇跡であり、それを見た人達は神の臨在を知って悔い改めるようになります。

「私の心に適う者」(マルコ1:11)という天からの声こそが神の子の徴です。この言葉はイエス様の生涯を表わしています。イエス様が虐げられている人々と共におられ、高慢な者を裁き、受難の道を歩まれたのは神の御旨を行らわれたからであります。私たちも神の御旨を行う者として神の子と呼ばれます。

私たちは、今すぐこの世界から感染症が無くなってしまうようにと奇跡を求めるのではなく、神の御旨を求めつつ、日々忍耐をもって過ごしていく者でありたいと思います。

礼拝動画: https://youtu.be/-XjqmREKMEw

 

三博士の訪問 2021年1月4日 降誕節第二主日

イザヤ書60章1~6節
マタイによる福音書2章1~12節
説教者:関義朗牧師

クリスマスを喜ぶ喜びの中で、2021年が始まりました。今年も主と共に歩む信仰の生活を送ってまいりましょう。

イザヤ書60章1節には「起きよ、光を放て。」という言葉が記されています。それは「私たちを照らす光は昇り、主の栄光が私たちの上に輝く」からです。

ユダヤを含む中東の人々には世界を治める王が現れるという期待がありました。そして東方の三博士はそれを表わす星を見つけ出しました。それで彼らは星に導かれてベツレヘムに行き、幼子イエス様を見い出して礼拝しました。

コロナ災禍は自然現象と言えますが、人々は心の中に実際の恐怖よりはるかに大きな恐怖を抱き、それが差別や迫害といった分断を引き起こします。

三博士の訪問は現代の私たちの姿でもあります。私たちはイエス様を聖書の中に見出し、礼拝しています。そして今日もコロナ災禍によって弱っている心を強めていただき、希望をいただきました。主は私たちの希望の源なのです。

 

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