ヨハネによる福音書9章1~12節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)
黙想:
古いユダヤには因果応報の考えがありました。現代ではそれは確率の問題だと考えます。
しかしイエス様は「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。
これは、私たちが生まれてきたのは神の業が現れるためである、と広げることができるでしょう。
だれでも神の意志によらなければ生まれることはありません。
どんな人も、どのような人が生まれるかを予測したり、その人がなぜその人なのかを分析することは出来ません。
存在していることだけが確かなことです。
神の業を尋ね求める必要はありません。存在していることが神の業の現れなのです。
今日も主の祝福を祈ります。