東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

神からの贈り物 2020年5月5日 復活節第4主日

イザヤ書42章1~4節
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

私たちはイエス様を甦らせた神の力の贈り物として、よみがえらせていただき、天上(神の国)に居場所をいただきました。この贈り物は何物にも代えがたい最上の富です。

しかしながら、この贈り物はすべての人が受けようと思えば与えられるものなので、私たちはその価値を当たり前のものと思ってしまうようになります。更に、私たちは各々の生活の場で、この世の富や名誉、過去の悪を取り去るという物、私こそ救い主と名乗る人など、いろいろな誘惑を受けています。これらは復活のイエス様、キリストから私たちを離れさせ、以前の生き方に戻す力です。

キリストを信じることなしに神の愛とその力を知ることは出来ません。ある高齢の牧師は70年ほど前の雪の日に最初に教会に行った時、「よく来たね」と抱いて迎えてくれた婦人のことを昨日のことのようにお話されました。この暖かさは神の愛から来るものです。

誘惑に負けて神からの贈り物の価値を見失うことなく、その贈り物に感謝して日々を送りたいと思います。

 

復活のキリスト 2020年4月26日 復活節第3主日

イザヤ書61章1~3節
ヨハネによる福音書21章1~14節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

弟子たちは、主が死んで取り去られたという失望や状況を変えることはできなかったのだというあきらめ、などの思いを持って、故郷に帰り、漁をしていたに違いありません。舟に乗っていた弟子たちが見た人物は大体90mほど離れた岸辺にいた人でした。けっしてはっきりと見えていたわけではありません。それでも弟子は確信しました。あそこにおられる方は「復活のキリスト」イエス様だ、そう確信しました。失望や諦めの気持ちが希望と喜びに変わったことが「主だ!!」という叫びになりました。それは復活のキリスト・イエス様が呼びかけたからです。

弟子たちが「主だ」と叫んだように、私たちも聖書の御言葉を声に出して読み、さらに声に出して「主だ!!」と言ってみましょう。不思議な力を感じるに違いありません。主は私たちのそばにおられるということを感じます。実に聖書の御言葉に主は宿られており、主は私たちに呼びかけてくださっています。信仰があるかないかは問題ではありません。すべての人に出会いの機会は与えられています。もしあなたが悲しんでいれば慰められ、怖がっていれば「恐れることはない」と言って守ってくださいます(イザヤ61章)。主はよみがえられました。私たちがこのことを信じようと信じまいと、このことはすでに起きた事柄です。この不条理な世の中にあって、あらゆる悲しみや不満足な私たちの人生のただ中に、主は立っていてくださいます。

 

弱さの中で発揮される力 2020年4月21日 復活節第2主日

エゼキエル書34章11~16節
コリントの信徒への手紙二・12章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

世の中一般には「力は強さだ」と信じられています。しかし、愚かな金持ちの譬え(ルカ12:13-21)にあるように、人間の間でどれだけ権力を持っても所詮それは儚いものです。金持ちは自分の富をすべて自分の倉に入れて喜びましたが、その夜のうちに命が取り去られました。

弱い時には自分の力など何の役にも立ちません。主に祈り、主に寄り頼むしかありません。実にこの時に私たちは神の力を知ることができるのです。そしてすでに恵みが与えられていることに気づきます(2コリ12章)。

ベテル教会が今日もこの地で礼拝をおこなうことができるのは主なる神がこの地で宣教されることをお望みになるからです。主は私たちを養ってくださいましたし、これからも養ってくださいます(エゼ34章)。高齢になって弱くなった時は十字架のイエス様の弱さを見上げる時です。少人数の群れとなった今は、私たちがキリストの体の一部分を構成する、小さいけれどなくてはならない要素だということを感じる時です。しかも私たちはただ弱いだけではありません。主を礼拝し、恵みに与ることを心から望んで、礼拝に集っています。そして世界中にある教会とつながって主の体の一部です。主のご計画を信じて安心して主に従ってまいりましょう。

 

主はよみがえられた 2020年4月12日 復活節第1主日

イザヤ書55章1~5節
ヨハネによる福音書20章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

主のご復活おめでとうございます。今日は主がよみがえられたことを記念する復活祭礼拝です。ベテル教会ではこの日に永眠者を覚えて、その方々の写真と共に礼拝をおこなっています。感染症が拡大していることからインターネットを使っての礼拝となりますが、共に時を同じにして礼拝することができますことを主に感謝します。

復活は生き返ることとは違います。生き返るのであればまた死ぬことになりますが復活は永遠の命に生きることです。聖パウロは「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と告げました。復活させてくださるのは主なる神です。ヨハネによる福音書20章1節から10節には復活のキリストは現れていませんが弟子たちはイエス様の体がなくなった墓を見てイエス様の復活を信じました。かつてイエス様が告げた言葉(マタイによる福音書16章21節ほか)や旧約聖書の言葉(詩編16編、110編ほか)を思い出したからです。

ところで、そもそも死とは何でしょうか。死は、病気によって起きるのでも、事故によるのでもありません。死は主なる神の御心によるのです。私たちは信仰によって、死は主がお定めになった事柄であることを知っています。そしてまた、私たちはイエス様のよみがえりを通して、私たちがよみがえりの命へと移ることを知るのです。主は確かによみがえられました。主を信じて主の御許に召されたベテル教会に連なる「神の家族」、私たちの兄弟姉妹も永い眠りの後によみがえらせていただける希望を抱いて召されていきました。私たちにもその希望が与えられています。

 

裁く者が裁かれる 2020年4月5日 受難節第六主日礼拝(棕櫚の主日)

創世記22章12~14節
ヨハネによる福音書18章33~40節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

今、私たちは新型コロナウイルス感染拡大の中にいます。私たちはこの感染症をどの様に捉え、どのように対処すべきでしょうか。信仰的な側面からこの感染症について考えてみたいと思います。

この病気を通して神はアブラハムを試されたように、私たちを試しています(創世記22章)。この病を経験している私たちが改めて知ったのは、自然は物を言わず大人しい存在、裁かれるものだと思っていたけれども、実は裁くものであったことが明らかになりました。この時期に私たちは感染を怖がり、死の恐怖に怯えるばかりではなく、私たちの生活の仕方が間違っていなかったか反省しなければなりません。自然を人間の快適な暮らしや経済を発展させるために犠牲にしていなかったかを問い直さなければならないと思います。感染症だけではありません。異常気象や自然災害が増えていることにも目を向けなければなりません。私たちは自然の審判者ではありません。

イエス様の言葉(ヨハネによる福音書18章33~38節)に聞くならば、私たちは今までの自分たちの生活の仕方を改める方向へと行動しなければならなくなります。神はイサクの代わりに雄羊を用意してくださったように、またイエス様を死の3日後によみがえらせてくださった様に、世界が感染症の危機の中にいるこの時にすでに私たちには想像することもできないようなものを備えてくださると信じます。

 

一粒の麦の種 2020年3月29日 受難節第5主日礼拝

イザヤ書63章7~10節
ヨハネによる福音書12章20~36節
説教者:関義朗伝道師

YouTubeで礼拝の様子を公開しました。音声データで説教をお聞きいただけます。)

麦の種は土にばらまかれ、踏みつけられます。イエス様はご自分を一粒の麦と譬えられて、自らが一番小さく弱い者とされることによって、この世界で小さくされている人と同じ立場に立ち、その苦しみを経験されました。私たちの苦しみを担い、救い主となられました。(イザ63:7-9)。

イエス様の死はこの世界で罪人とされ、小さくされていた人たちのためでした。一方で、権力者や金持ちに対しては裁きが告げられました(ヨハ12:31)。裁かれているのは地位や財産ではなく、傲慢に陥り、神を蔑ろにする人格そのものであり、それは回心を促すものです。

日本で女性医師第1号となったキリスト者荻野吟子は病気の女性が男性医師から屈辱的な処置を受けることを良しとせず、女性医師の道を開きました。彼女は自分が小さくされている側の人間であることを自覚し、必要なのは女性医師だと気づいたのです。そこにはイエス様の教えがありました。イエス様は一番低いところにおられて私たちと関わっておられます。

 

旅立ちの準備 2020年3月23日 受難節第4主日

サムエル記上10章1~8節
ヨハネによる福音書12章1~8節
説教者:関義朗伝道師

録音目安 聖書朗読:0:00~4:42、説教:10:43~30:30

卒業や移動は新しい旅立ちです。人々は新しい環境に向けて旅立ちの準備をしなければなりません。そのような時には期待と不安が入り混じります。

預言者サムエルはサウルが古代イスラエル王国の初代の王として出発する時に彼の頭に油を注ぎました(サム上10章)。ベタニアのマリアはイエス様の足に高価なナルドの香油を注ぎ、自分の髪で拭いました。マリアは気づきませんでしたがイエス様の葬りの準備でした(ヨハネ12章)。

この油注ぎは旅立ちの準備ですが、その背後にある祈りを忘れてはなりません。サムエルはサウルが主の委託に心から応えることができるように祈ったでしょう。そしてマリアはイエス様の足に香油を塗る時に祈ったに違いありません。

私たちも新たな旅立ちの時を迎えた人々のために、そして私たち自身のために主に祈りたいと思います。それは成功を願う祈りではなく、これからの人生においてその人の命が最も輝くものになりますようにという祈りであり、その人の存在が生かされますようにという祈りです。

 

命と滅び 2020年3月17日 受難節第3主日

ヨシュア記24章14、15節
ヨハネによる福音書6章66~71節
説教者:関義朗伝道師

録音目安:聖書朗読 0:00~2:19、説教 9:09~31:54

2020年3月11日は東日本大震災から9年目の追悼の日でしたが、新型コロナウイルスの世界的感染拡大のため追悼行事が大幅に縮小されてしまいました。大震災の追悼と新型コロナウイルスの感染拡大は私たちに死が身近にあることを改めて突き付けています。

モーセの後継者ヨシュアは主なる神の御心として、主を選ぶか捨てるかを民に選ばせました(ヨシュア24:14,15)。そしてイエス様はご自分の元から去っていく人々を止めませんでした(ヨハ6:66)。

主なる神は人を自由にし、人に選択の自由を与えています。しかし私たちが死と隣り合わせであることを思い出せば、私たちは命の源である主に留まることを選ぶことが必要です。人は主の言葉をないがしろにし、自分の思いや欲望を優先させてしまいがちですが、主に留まることを選ぶことは命を得ることなのです。主は命のパンです。命の源です。主に留まり、生死を超える命へと向って日々を過ごしてまいりましょう。

 

見えた 2020年3月8日 受難節第2主日

列王記下6章15~17節
ヨハネによる福音書9章30~33節
説教者:関義朗伝道師

録音目安:聖書朗読 0:00~2:22、説教(メッセージ) 2:24~19:33

本日の聖書箇所は旧約・新約とも、見えるようになるという事柄が書かれています。エリシャの従者は「恐れてはならない」というエリシャの言葉と祈りにより、敵の軍勢を上回る神の大軍を見ました。目の不自由な人はイエス様の業を受け、そのお言葉通りにシロアム池で目を洗って目が見えるようになりました。

目が見えていても自分の未来や自分が何者かといった肝心なものは見えません。私は会社員時代に巨費を投じるお客様の工場建設に従事しました。製品品質の目標を左右する機能の開発に携わっていて、考案した方法で上手くいくかどうかわからず重圧に押しつぶされそうでした。しかし主を信じるようになってからは出来ることを全力で行い、後は神に委ねることで、前向きに取り組むことができるようになりました。それは私にとって見えるようになった時でした。私が尊敬するKさんは安定した職業より自分を生かす語り部となることを選び、未来を主に委ねました。Kさんは人の温かさや陽だまりのぬくもりを見て、感じて、日々を豊かに過ごしています。

 

誘惑と信心 2020年3月2日 受難節第1主日

出エジプト記17章7節
マタイによる福音書4章1~11節
説教者:関義朗伝道師

聖書:8:04~10:50、説教:16:43~37:23

人となられたキリスト・イエス様は悪魔(誘惑する者)の誘惑の巧妙さや強さを経験されました。それでも聖書の御言葉によって誘惑に勝たれました。

最初の誘惑は本当に食べ物が無くて死にそうな人にではなく、断食しているイエス様に向けられたものです。イエス様の答(申8:3)は、生死の限界状態で人は初めて主なる神の御言葉で生きていることを知ることを示しています。

2番目の誘惑は私たちにとっては「信じているなら証拠を見せなさい」という誘惑です。イエス様は神を試してはならない(申6:16)と答えて誘惑を退けられました。私たちには神が私たちに現わされた栄光や恵みを語ることが許されているのであって、証拠を見せるために神を試すことは許されていません。

最後の、世界が自分の思い通りになるという誘惑は強烈です。しかし欲しいものをすべて手に入れても人は不幸です。欲望は尽きることがなく人を蝕みます。主は私たちを解放してくださるお方です。主を礼拝し、ただ主に仕えること(申6:13)が、私たちを自由にし、充実し希望に満ちた人生にします。

 
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