東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

僅かなものに感謝 2020年2月19日 降誕節第8主日

申命記8章1~3節
ヨハネによる福音書6章1~13節
説教者:関義朗伝道師

神は「人はパン(この世の富)だけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と告げています(申8:3)。そして5千人の食事(ヨハ6章)はイエス様がこのことを示した出来事です。イエス様は5つのパンと2匹の魚という僅かなものを神に感謝してお用いになり奇跡が起きました。

ベテル教会には主なる神によって集められた人と精一杯の献金が確かに与えられています。それは僅かでも主はお用いになります。私たちは次の2つの可能性に立って、この地でイエス・キリストに願い求め続けます。その第1は「神に従う信徒の群れであるベテル教会に対して、神の正義はこのような現状をお許しにはならない」ということ、第2は「主なる神は私たちのような者を最も心配される」ということです。

僅かなものを用いてくださるのは主なる神です。私たちはそのことに信頼して主を礼拝し、証し続けたいと思います。

 

真理はあなたを自由にする 2020年2月11日 降誕節第7主日礼拝

ヨブ記22章21~22節
ヨハネによる福音書8章31~38節
説教者:関義朗伝道師

国会図書館の受付カウンターの上部には日本語とギリシア語で表題の言葉が刻まれています。この言葉は世界中の多くの大学の建物に掲げられるほど有名です。本や情報が可能性を広げるという理解からでしょう。

しかしヨハネが語る真理とはキリスト・イエス様のことです。イエス様は当時の聖書をご自分が実際におこない人々と対話することで伝えました。学者は聖書を研究対象としているだけでした。聖書には神は人間を解放し、自由にしてくださるお方であることが証しされています。それには生き方を変えるほどの力があります。

自由ではなく誰かに命令される方が楽だ思い束縛を求める人がいます。エジプトで奴隷だった人々は荒野で放浪生活を送っていると奴隷の方が良かったと言い出しました。奴隷から解放されても実は心が自由ではなく、食べて寝られる方が幸せだと勘違いしていました。

自由であるとは自由にしてくださる存在がおられるから自由なのです。キリスト・イエス様につながり、神の言葉に従うことにおいてのみ、私たちは自由でいられることを覚えたいと思います。

 

神が居られるところ 2020年2月4日 降誕節第六主日

列王記上8章27~30節
ヨハネによる福音書2章13~22節
説教者:関義朗伝道師

神殿の境内で、罪を贖ってもらうために献げる犠牲の牛や羊や鳩が売られているのを見ると、イエス様は鞭で牛や羊を境内から追い出しました。なぜこのような行動を取ったのかについて、弟子たちが思い出した詩編69編がカギになります。この言葉は「神の家を思う熱情がイエス様を食い尽くす」という意味です。つまりイエス様は正義の鞭を振りかざして悪人を打ち負かしたのではなく、父なる神を愛し人々を愛する熱情のゆえに、律法を間違えて解釈して神殿の境内で商売をしている人達に一人で立ち向かったということです。

イエス様の行動には悲しみがありました。神に赦しを求めるのにお金で解決しようとする人々と、その人々に牛や羊や鳩を売る人々を見て、母親が思わず激情に駆られて我が子の悪い行動を叱るように、イエス様はやむにやまれず行動したのです。

私たちが神に近づくことができるのは、神が現れるこの礼拝堂で、悔い改めて御言葉を聞くからであります。その場所を商売や社交場にしてはならないのです。

 

願って待つ 2020年1月27日 降誕節第5主日

出エジプト記33章18~23節
ヨハネによる福音書2章1~11節
説教者:関義朗伝道師

困りごとは大抵の場合、起きてほしくない時に起こります。カナという町で行われた祝宴の途中でぶどう酒が無くなってしまいました。イエス様の母マリアがイエス様にそのことを告げると、「わたしとどんなかかわりがあるのです。」と母の願いを聞き入れませんでした。しかし母は落胆せず召使いたちに備えるよう伝えました。

その後、どのくらい時間が経ったかは書かれていませんが、イエス様は水がめに水を満たすように指示しました。それを宴席に持って行くと水はぶどう酒に変わっていました。神の恵みや憐れみは神が自由にお決めになられます(出33:19)。マリアはそのことを信じていて、イエス様に願って、委ねました。

私はイエス様を知らなかった時には問題が発生するとパニックになっていました。しかしイエス様に出会ってからは、主が良い方向に導いて下さることを信じて、祈り、心を落ち着かせて対応するようになりました。それは心に拠り所ができたからでした。

神の愛は私たちを裏切りません。母マリアの主への信頼は、聖書を通して私たちへと受け継がれいます。

 

常識の落とし穴 2020年1月19日 降誕節第4主日

サムエル記上3章6~10節
ヨハネによる福音書1章43~51節
説教者:関義朗伝道師

ある美術館が作者などの説明をつけずに絵を展示したところ、見学に来た人たちは戸惑ってしまったそうです。絵の素晴らしさを自分で判断することに不安を覚えたのでしょう。説明はいわばその絵の常識が書かれているような物です。

本日の聖書箇所に出てくる少年サムエルは主の声を聞くという出来事(サム上3章)を、ナタナエルはナザレに救い主が生まれたという知らせを聞く出来事(ヨハ1章)を体験しました。どちらも常識では考えられないことでした。

常識が真理を遠ざける「落とし穴」となりうることに注意しなければなりません。その落とし穴にはまらないようにするには面倒でも「行って、見る」ことです。フィリポは疑うナタナエルに「行って、見なさい」と自分で確かめるよう勧めました。ナタナエルは自分で行って確かめることで真実を理解しました。サムエルもエリの所に行きました。彼らはそのことによって神を知ったのです。

私たちが教会に来て主を礼拝するのは、この真実を確かめるためであり、礼拝する姿によって人々に神を知らせるためであることを覚えたいと思います。

 

洗礼、新しく生まれる 2020年1月13日 降誕節第3主日

イザヤ書42章5~7節
ヨハネによる福音書1章29~34節
説教者:関義朗伝道師

明日は成人式です。大勢の新成人が式を楽しみにしていることでしょう。成人は誕生や結婚のような通過儀礼のひとつです。20歳から一人前の大人として扱われ権利と義務が発生します。

キリスト教の洗礼も通過儀礼と言えます。洗礼は成人と同じく一生に一度きりのものです。洗礼式では牧師が祈って聖くした水を入れた洗礼盤から水を取り、父・子・聖霊の御名によってと唱えながら受洗者の頭に水をかけ洗礼を授けます。

預言者イザヤは「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」(イザ42:7)と神の言葉を告げました。この救いを象徴するのが洗礼です。イエス様も私たちと同じように霊によって洗礼を受けられました(ヨハ1:32)。それは私たちの苦しみや屈辱を担われることを意味しています。それらを担って私たちを救い出されるのです。洗礼によって人は新しく生まれ、世界が変わって見えるようになります。今年も主と共に祝福の道を歩いてまいりましょう。

 

言(ことば)は人となった 2020年1月6日 降誕節第2主日

イザヤ書40章28~31節
ヨハネによる福音書1章14~18節
説教者:関義朗伝道師

新年にあたり、預言者イザヤが告げた「新たな力」(イザ40:31)について考えてみたいと思います。この言葉は、私たちが超人のように働けるようになるということではなく、私たちが御言葉を伝えたい、悩みを持っている人達に大丈夫だよと伝えたいという思いになるようにしてくださることではないかと思うのです。

言が人となった時(ヨハ1:14)、人々は新たな力をいただきました。貧困や抑圧の中で希望を見たのです。この降誕の出来事は驚くべき恵みであり父なる神からの贈り物です。

西南支区の新年礼拝で説教をしてくださった用賀教会のベク牧師は韓国で生まれ育ち、23歳で来日して、日本で神学を学び、20年もの長い間日本で宣教の働きを担っています。ベク牧師はイエス様に出会って新たな力を得て、外国である日本に来て福音を伝えています。彼は両国の文化や慣習を経験を通して知っています。そのうえで「神は境をおつくりにはならなかった」と和解を呼びかけています。私たちも主から新たな力をいただいて新しい年を始めましょう。

 

新しい人生 2019年12月30日 降誕節第1主日

イザヤ書11章1~5節
マタイによる福音書2章1~12節
説教者:関義朗伝道師

占星術師たちは運命を信じ、未来を知るために星を調べていました。そして王の徴を見つけ、星に導かれて幼子イエス様に出会いました(マタ2章)。そして彼らは幼子に「主の霊に満たされた人(イザ11:1)」を見出しました。その時、運命を信じていた彼らは神を信じ神と共に生きる新しい人生を与えられたのです。

人の一生が既に決められていて運命を受け入れるしかないとするならば、人は未来に希望を持つことは出来ません。何が起きるかを恐れつつ待つしかなくなります。苦しい事が続くとすべては運命だと諦めるようになります。

どのようなことが起きようとも希望を失わないためには個人の努力だけでは無理です。神と共に人生を歩むからこそ、自分の限界を超えて働いてくださり、状況を切り開いてくださる神に頼ることができます。

神の独り子であるイエス様をこの世界に遣わしてくださった恵みの大きさは語り尽くすことなどできませんが、私たちはこの占星術師の物語を通して主なる神から大きな贈り物を受けたことを覚え、喜びたいと思います。

 

イエス様を迎えましょう 2019年12月26日 クリスマスイブ燭火賛美礼拝

イザヤ書9章5~6節
ルカによる福音書2章1~7節
説教者:関義朗伝道師

子どもの頃にはクリスマスには何か良いことが起きると信じていても、大人になると信じられなくなります。歳を重ねるうちに、裏切られ、だまされるなどの経験をするからです。私は就職して規則や命令の世界に身を置き、それまで持っていた親切心やへりくだる心を忘れてしまい、すさんでしまいました。

その点、古代イスラエル王国の人々は預言者イザヤが告げた「一人のみどりごが私たちのために生まれた」(イザ9:5)という神からの預言の言葉を信じ、自分の代で実現しなくても若い人々にこの預言を伝え続けました。そして遂に神の御子であり私たちを救う救い主のイエス様がお生まれになったのです。

神に信頼する希望とそれに基づく行動は徒労には終わりません。人に裏切られだまされて、低いところに落とされても嘆く必要はありません。御子なる神、イエス様は最も低い馬小屋にお生まれになり飼葉桶に眠ったのです(ルカ2:7)。

主は再び来ると約束されました。その時こそ世界は創造の状態に回復するのです。この約束を信じ、若い人に伝えつつ待ち望みたいと思います。

 

この日イエスは生まれた 2019年12月22日 クリスマス礼拝

創世記1章1~3節
ヨハネによる福音書1章1~5節
説教者:長崎哲夫牧師

クリスマスおめでとうございます。私が初めて教会に行ったのはクリスマスの時期でした。寒い雪の日に私を迎えて抱きかかえてくれた婦人の暖かさを私は今でも覚えています。

神が「光あれ」と言われると光がありました。キリストは神の言葉として世の初めからおられたのです。光のありがたさ、暖かさは格別です。私は八ヶ岳のふもとに住んでいますが、夜になると地上の明かりは何もありません。闇の中で月や星の光は実に明るいのです。

先ほど交読した詩編146編には人を信頼するのではなく神を信頼するという一節がありました。人から何かしてもらうことを期待するのではなく、私があの方をどれだけ愛し信頼するかです。人は悩み続けて生きています。そのような中で本当に信じられるものを信じていくのです。

私は牧師を引退したら読みたいと思っていた念願の源氏物語を読むことができました。光源氏はいろいろな女性を愛するのですが、彼は最後に本当に信じられるものを持っていないということに気づきました。好きなことばかりをしていたが最後はこういうことでした。人はどんなに愛し愛されても最後は別れなければなりません。本当に信頼すべきものがない人は空しい。

ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)事務局長のサーロー節子さんは「雲霞のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。」と演説で訴えました。

人間は良いと思っても悪いことをしてしまいます。神の前にへりくだらなければなりません。神は私が最初に教会に行ったクリスマスの日に抱きかかえてくれた婦人のように、私たちを愛し、光の優しさ暖かさで抱きかかえてくださいます。

(文責:ベテル教会伝道師 関義朗)

 
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