東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

いのちの源 2020年7月13日 聖霊降臨節第7主日

ホセア書14章5~10節
使徒言行録9章36~43節
説教者:関義朗伝道師

命という漢字は、神の口から発せられる言葉を聞く姿勢を表しているそうです。一方、聖書は、命は神が与えたと証ししています。洋の東西を問わず、人々は命が神と関わりがあることを知っていました。現代人は情報過多の中で命が何であるかを知りません。私たちの命は神の支配の下にあることを知れば、殊更に死を怖がる必要は無くなります。

ペトロがタビタを生き返らせたのはペトロの力ではなく神の御旨です。神はペトロをお用いになって、タビタにこの世界での働きをお与えになるために命を回復させました。この命の回復の出来事は多くの人々を主のもとに導きました。

私たちは生きることも死ぬことも自分ではどうすることもできません。しかし「いのちの源」(ホセ14:9)なる主が私たちと共にいてくださり、この世界で主の働きに参加するよう促しておられます。私たちは生きるも死ぬも主にお委ねし、主から委託された働きをおこなっていきたいと思います。

(説教音声を聞くには下の黒枠長方形の左側の▷にカーソルを合わせ、マウスの左ボタンを押してください。)

 

その怒りは正しいか 2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日

ヨナ書4章1~4節
エフェソの信徒への手紙2章14~22節
説教者:関義朗伝道師

旧約聖書のヨナ書で預言者ヨナは主なる神が告げた「隣国アッシリアの首都ニネベを滅ぼす」という託宣を命がけでニネベの人々に告げたのですが、王を始めとしてすべての人が悔い改めたのを見た主は滅ぼすことを思い止まりました。ヨナはこのことを不満に思い怒りました。怒りを持っている人はヨナのように、自己を否定された、誤解された、思い通りにいかない、などの思いのために怒りを発し、その怒りを正当化しようとします。しかし私たちにとって大切なのは「その怒りは正しいか」(ヨナ4:4)という主の問いかけに耳を傾けることです。
この主の言葉でさえ、私たちは退けようとするかもしれません。怒りが大きければ「主は何も分かっていない」と主を見捨てようとするかもしれません。そのような私たちのためにキリスト・イエス様が与えられました。キリストは私たちの平和です(エフェ2:14)。ご自分の命と引き換えに、隔ての壁を打ち壊し、一つにしてくださいました。
私たちは他人の言葉や行いに傷つき怒りを発することはあります。しかし怒った時こそ私たちはキリストを思い出さなければなりません。自分が正しいのか、相手が正しいのかを争って怒りを持ち続けるのではなく、お互いをキリストに委ねるようにしたいと思います。そうすればお互いに平和に歩むことができます。キリストが私たちを一緒に生きることができるようにしてくださるのです。

(説教音声を聞くには下の長方形の黒枠左側の▷にカーソルを合わせ、マウスの左ボタンを押してください。)

 

罪を焼き尽してくださる神 2020年6月28日 聖霊降臨節第5主日

ミカ書4章1~7節
ヘブライ人への手紙12章25~29節
説教者:関義朗伝道師

金属を純粋なものにする技術に精錬というものがあります。これは金属を火で熔かして不純物を取り除く作業のことです。火は不純物を取り除いて純粋にするのに欠かせません。それと同じように「私たちの神は焼き尽す火」(ヘブ12:29)です。その火によって私たちの罪を焼き尽してくださいます。私たちは自分の力では悪い思いや行いを退けることができなくても、神を信じることにより、神はその火によって私たちの悪い思いや行いを滅ぼしてくださいます。

現実がいかに理想とかけ離れていようと、自分自身が心の奥に耐えがたい悲しみや怒りを持っていようとも、また欲望に縛りつけられていようとも、主の焼き尽す火は必ず私たちを聖い者に変えてくださいます。主なる神の焼き尽くす火を恐れてはなりません。むしろ私たちはその火で私たちの罪をすべて焼き尽くしてもらうように祈りましょう。

 

神に従う人々 2020年6月24日 聖霊降臨節第4主日

ハバクク書2章2~4節
ヨハネの手紙一 2章20~27節
説教者:関義朗伝道師

(説教を【youtube】で配信しています。)

預言者ハバククの口を通して、主は「神に従う人は信仰によって生きる」と告げました。それは「神に従う人は正しい分別を持つ。だから主の目に正しいことをおこなう」ということを意味しています。それは人が考える正義ではありません。

キリスト者は主なる神から聖霊を受けた存在です。聖霊の神が私たちの内に宿っておられます。聖霊は父なる神と子なるキリストのことを思い出させてくださいます。それによって私たちは正しい分別を持つことができます。

人生に正しい道などない、とけなす人に出会うかもしれません。けなす人にはそのようにさせておけば良いのです。神の言葉のみが私たちを生かします。人の言葉や行為に振り回される必要はありません。信じることを恥ずかしく思う必要はありません。むしろ信じていること、主に従うことを根本に置いて、堂々と豊かな毎日を歩んでまいりましょう。

 

聞くことから始まる 2020年6月16日 聖霊降臨節第3主日

申命記6章16~25節
ローマの信徒への手紙10章14~17節
説教者:関義朗伝道師

聖書の民は何千年も昔の出エジプトの記憶を後世に伝え続けてきました。出エジプトの出来事は束縛からの解放の象徴的な出来事です。主なる神は人間が陥ってしまった束縛から救い出し、解放してくださることをお示しになったのです。そのことを人々は記憶し続け、主を礼拝することを一番大切なこととしたわけです。

戦後は個人の自由が最大限に認められるようになり、何にも縛られない自由を謳歌できるようになりました。ところが実際は会社や地域や家族などのしがらみや自分自身の内部から湧き起る欲望に縛られています。ちょうど糸が切れた凧のように、外と内からの突風に束縛されて不安定になっているようなものです。凧が糸につながって安定するように、主につながることが人生を自由にし安定させます。主は束縛から解放してくださるお方だからです。主の御言葉を聞くことが人生の突風に対抗する唯一の方法です。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 

霊の豊かな交わり 2020年6月9日 聖霊降臨節第2主日

イザヤ書40章27~31節
ヨハネによる福音書14章25~31節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。)

イエス様は父なる神が私たちに降した聖霊がすべてのことを教えてくださることを教え、そして平和を与えることを約束されました(ヨハ14:26,27)。主が与えてくださる平和は<約束>の平和です。争いや不安や辛さの中にあっても約束を信じることによって私たちが平安であるような平和です。イエス様は天に昇られ私たちの目には見えなくなりましたが、再び来られるまでの間は聖霊が私たちを導いてくださいます。そしてイエス様が再び来られる時に平和が完成します。

この約束を信じる人は主に望みをおく人です(イザ40:31)。イエス様を信じている人々は聖霊のお働きによって、イエス様とつながり、イエス様を愛しています(ヨハ14:28)。そして愛によって、相互に豊かな交わりに入れられています。聖霊が主を思い出させてくださるから、私たちはお互いの思い違い、煩わしさ、葛藤といったものを超えて、互いを思いやることができます。主の平和は一人ひとりを満たします。主を信じる人々を聖霊によって豊かな交わりへと招き入れてくださいます。

 

教会が生まれた 2020年5月31日 聖霊降臨日(ペンテコステ)・ベテル教会創立記念日

エゼキエル書37章1~6節
ヨハネによる福音書14章15~21節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。高音質の説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

聖霊降臨日おめでとうございます。聖霊降臨はキリスト教会が誕生した出来事です。イエス様は復活から40日目に天に昇られました。その後、弟子たちが毎日集まって祈っていると、その10日後に弟子たちに聖霊が降って、いろいろな国の言葉で福音を語り出したのです。福音とは、「イエス様がこの世に生まれて、信じる人をいろいろな束縛から解放したこと、今日でも復活のイエス様(キリスト)を信じる人々は束縛から解放されることを伝える良い知らせ」です。イエス様を信じる人々にはイエス様の恵みと父なる神の愛とを思い起こさせてくださる聖霊が降り、その人の内にとどまります。

ベテル教会は1952年の聖霊降臨日に創立しました。創立当初は初代牧師の自宅で礼拝が行われていました。次第に礼拝参加者が増えたことから、近くに土地を探し、1960年に富ヶ谷のこの地に土地を取得して会堂を建設し、その次の年の7月2日に新会堂で最初の礼拝をおこないました。献堂した人々は地域伝道の夢を持っていて、その当時に始めた学習塾には最大で80人の子どもが集まったそうです。さぞ1階の集会室は賑やかだったことでしょう。ベテル教会は教会学校を再開しましたが、子どもはほとんど来ていません。これは悲しむべきことなのでしょうか。

聖霊がベテル教会に集う人々の内におられて、私たちを導いて下さり、この地域の人々にも働きかけておられることを信じるならば、結果をあれこれ気にする必要はありません。主がベテル教会の教師と信徒を用いてこの地で伝道しておられます。偶然通りかかった人がベテル教会の十字架を見つけて、ここに教会があることを知り喜ぶことは、過去にもありましたし、それは現在でも確かにあることです。主なる神はこの教会の人々に働きかけ、私たちの内なる聖霊が私たちを導き、私たちの存在の全てを用いて、私たちが知らず知らずのうちに人々に福音を宣べ伝えさせていただくという栄光を与えてくださっています。私たちは信仰を得て強められました。私たちはこの信仰によって活き活きとした人生を送ることができました。そのことを思い出して感謝する。その感謝の気持ちは自ずと表情に現われ、行動に現われ、喜びとして現れ、それが人々に伝わっていくのです。聖霊が私たちをそのように導いてくださいます。

 

罪を取り除かれる主 2020年5月26日 復活節第7主日

サムエル記下12章1~17節
ルカによる福音書5章27~32節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝映像を【YouTube】で配信しています。  音質が良い礼拝録音は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。礼拝される場合は最初から再生してください。説教は24分17秒~49分05秒にあります。)

古代イスラエル王国の王ダビデは偉大な王として称えられていますが、彼も罪を犯す人であったことが聖書に記録されています。彼は悪事を隠すために忠実な部下を死に至らしめるよう命じ、その人は戦場で敵に殺されてしまいました。一連の悪事は完全犯罪のごとく闇に葬られるかに思われましたが、主なる神はダビデの罪を咎め預言者ナタンによってダビデは罪を完膚なきまでに思い知らされました。

徴税人レビはローマ皇帝への税金取り立ての職のためユダヤの同胞から罪人と蔑まれていました。主はどのような人も罪を犯す存在であることを告げています。罪を犯さないように生活することは大切なことです。しかし罪を犯してしまったならば、自分を正当化するのではなく、それを認め、主に立ち帰ることが大切であることを教えられます。ダビデはナタンに告白し、レビは全てを捨ててイエス様に従いました。

罪を悔いることは、罪を犯すことが苦しみであることへと私たちを向けさせます。罪は一瞬の快楽、その結果は長い苦悩。悔い改めるまで苦悩は続きます。罪を認め悔い改めて主に立ち帰る人の罪を、主は取り除き、再び命を与えてくださいます。

 

苦難と勝利 2020年5月19日 復活節第6主日

出エジプト記33章7~11節
ヨハネによる福音書16章25~33節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。)

イエス様は十字架の出来事の直前に「私は既に世に勝っている」と言われました。しかし、イエス様はこの言葉の前に「あなたがたには世で苦難がある。」という言葉も語っています。苦難と勝利はセットで与えられるのです。

そしてイエス様は私たちに「勇気を出しなさい。」と言われます。イエス様は私たちが苦難や不安の中で俯いて倒れるのではなく、眼を上げて私たちの助けがくる光や雲の柱の方向を仰ぐように、私たちに促すのです。光や雲の柱は神の現臨の象徴です。確かに今も臨在する、すなわち、ここに居られるキリストに目を向ければ勇気が出てきます。

キリストの勝利とはキリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順であったことを私たちが知って、すべての人がキリストに従うしかなくなるという意味での完全な勝利、負ける者がいない勝利です。その勝利の果実は苦難の中にあっての平和、平安です。不安や苦難の世にあって、その只中で、私たちは心安らかでいられます。キリストが共にいて私たちを憩いへと導いてくださることを確信しているからです。その確信はイエス様の十字架と復活によって保証されています。

 

ママの教え 2020年5月10日 復活節第五主日・母の日

箴言1章7~9節
マルコによる福音書3章31~35節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

5月第2日曜日を「母の日」として記念することは教会で始まりました。その元になっているのは十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」という戒めです。これは産みの親だから敬えという意味よりも、母には主なる神の愛やその御業を伝える役割があるから敬いなさいという意味です。その意味で、箴言1章8節には「母の教えをおろそかにするな」という格言が書かれています。

教会関係者以外はこのことを知らない人が多いと思いますが、この起源は大切にしなければなりません。昨今では児童虐待や育児放棄などが社会問題となっています。その背景には貧困問題などがあって単純に親を責められない場合もありますが、子どもを自分の所有物と勘違いして服従させようとしているのではないかと考えられる場合があり、その場合は親の責任は重大です。育児放棄や虐待をする親は尊敬される値打ちはありません。多分、本人たちはその親を通して神の愛を受けなかったのでしょう。だから子を愛することができないのだと思います。そういう人は神に立ち帰って悔い改めて新しい関係を築かなければなりません。

イエス様はマルコによる福音書3章34節で、イエス様の周りに座っている人々を見回して「私の母、私の兄弟」と言われました。信仰によれば、血がつながっている人が母なのではなく、神の愛や御業を伝える人が母なのです。その母を敬うようにという戒めに応える一つの形が母の日です。このような意味で、母に感謝することは神に感謝することにつながります。

 
« 1 2 3 7 »

年別アーカイブ

  • facebook
PAGETOP
Copyright © 日本基督教団 ベテル教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.