東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

人生の旅路を導く 2019年11月11日 降誕前第七主日

創世記12章1~9節
ヨハネによる福音書8章56~58節
説教者:関義朗伝道師

神の言葉は二千年前に人となられました。それがイエス様です(ヨハ1:14)。イエス様はご自分を『わたしはある』(ヨハ8:58)と名乗られました。これはモーセが聞いた神の名と同じでした(出3:14)。『わたしはある』という名前は存在の源、存在の原因となるお方を意味します。神は私たちにイエス・キリストという神の名を与えてくださったのです。

ある講演会である人が「私は今まで神さまの言葉を聞きませんでした。どうすれば聞けるでしょうか」という質問をしました。それに対する応答は「実はいやというほど聞いているんです。でも、それが神さまからの言葉だと信じられなかったということです。」というものでした。

私たちは神の言葉を聞いています。そしてその言葉に促されて行動したら、人生が変わるほどの体験をします。そのことはアブラハム(創12章)や多くの信仰の先達が証ししています。神の言葉に促されて行動してどんな結果になるかを恐れることはありません。主なる神は私たちを大いなる人生の旅人(創12:2)にし、導いてくださいます。

 

救い主が来られる 2019年11月4日 降誕前節第8主日

創世記3章1~15節
ヨハネによる福音書3章16~21節
説教者:関義朗伝道師

詩人の吉野弘さんの詩「I was born」の一節に、『人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。』という少年の言葉があります。この少年の苦しみは母親が自分の誕生と引き換えに死んだという思いでした。彼はそれを抱えて生きていました。

聖書は、苦しみの原因は神から離れてしまったこと(創3:1~19)だと語り、苦しみから救うために神は独り子をお遣わしになったと告げます(ヨハ3:16~21)。

イエス様は十字架で死なれて陰府にまで降り、そこからよみがえられました。もし少年がそのことを信じれば、「自分は行くことができないところにイエス様は行って、きっと母の苦労や無念の思いを癒してくださったに違いない」と思えることでしょう。

人は過去の出来事を変えることはできませんが、その出来事の意味を神との関係においてとらえ直すことはできます。それを可能にするのは主イエス様の愛を信じること以外にはありません。そこに救いの光があります。

 

世界の創造 2019年10月27日 降誕前節第9主日

創世記1章1~5、24~31節
ヨハネによる福音書1章1〜3節
説教者:関義朗伝道師

教会暦は今日から降誕前節に入りました。そこで今日はこの世界について思いを巡らせたいと思います。

聖書が告げる世界の創造は「神が天地を創造された」(創世記1章1節)、「すべてのものは言(ことば)によって成った」(ヨハネによる福音書1章3節)というものです。荒唐無稽と思われるかもしれませんが、神から啓示を受けて書き記された言葉には真理が表わされています。

科学に信頼を置く今日の世界では「方法」に興味が集中し、創造主や創られた意味に興味を持たなくなってきました。それはいわば世界が偶然に出来たということを暗黙のうちに受け入れることです。超越的存在を意識しなくなった人々から生きる意味が失われてきました。この世界は偶然できたもだのと考えるのであれば楽な生き方を探し求めるほかありませんが、この世界は苦労から逃れることを許してはくれません。人生は困難の連続です。生きる意味がなければ絶望するしかなくなります。神の存在を信じ、神と共に生きる人は困難の中にあっても生きる意味を知っているので幸いです。

 

救いの確信 2019年10月23日 聖霊降臨節第20主日

士師記7章1~8節
ヘブライ人への手紙11章32節~~12章2節
説教者:関義朗伝道師

へブル人への手紙11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信すること。」と書いてあり、その説明が4節から40節に書かれています。この「望んでいる」人は私たちではなく主なる神です。

古代イスラエルの指導者ギデオンは敵の大軍を僅か300人の民で打ち破りました。主はギデオンが目に見える兵力に頼るのではなく、目に見えない主の力に信頼して古代イスラエルを守るように仕向けたのです。この戦いは主なる神の戦いでした。主が先頭を行かれるので、ギデオンが率いる民は少人数でも戦いに勝つことができたのです。

主は人類が高慢になり自らの手で滅びに至ることを止めたいと望んでおられます。そのために主に従う信仰者を起こされました。その数は少なくても主には十分なのです。神はこの世界を創造し支配しておられるのですから、滅びへと進む力との戦いは最後には主が勝利します。これこそ救いの確信です。私たちは数や力ではなく、主に信頼して戦い、救いへと向かいたいと思います。

 

富んでいる人、貧しい人 2019年10月14日 聖霊降臨節第19主日

アモス書6章3~7節
ヤコブの手紙2章1~9節
説教者:関義朗伝道師

聖書には至る所に貧しい人に対する祝福が書かれています。貧しい人達は自分の力に頼らず、主に依り頼みます。それで主はこの人達を信仰に富ませ、神の国を受け継ぐ者とされました(ヤコ2:5)。神の前では偉大なダビデ王ですら「私は貧しく、身を屈めています」(詩86:1)と神の前には自らが貧しい者であることを告白しました。

富豪は自分の莫大な富に頼ります(詩52:9)が、その富を築く力を与えたのは主です(申8:18)。個人の努力だけで成し遂げたのではありません。一般的には環境や偶然が関係すると考えられていますが、その背後には主がおられます。

預言者アモスは役人が民の苦しみに目を向けず、賄賂で私腹を肥やして快楽に耽っているのを断罪しました(アモ6章)。ヤコブの手紙では人が金持ちか貧乏人かで対応を変えることを禁じました(ヤコ2章)。神の前ではすべての人が貧しい人です。そして主はそのことを知っている人を神の国の相続人とされるのです。

 

満ち足りるを知る 2019年10月7日 聖霊降臨節第18主日

アモス書8章4~7節
テモテへの手紙一  6章3~10節
説教者:関義朗伝道師

アモス書には不正な方法でお金を儲ける商人に対する厳しい断罪の言葉が書かれています。またテモテへの手紙一にも「金銭の欲はすべての悪の根」(Ⅰテモ6:10)と書かれています。お金に執着する金銭の欲は満ち足りるということを知りません。

それに対して信心は大きな利益の道です(Ⅰテモ6:6)。その奥義はイエス様(Ⅰテモ3:16)です。イエス様が父なる神の存在を教え、無償の愛を体現してくださいました。私たちにイエス様が与えられたことこそが奥義であり神秘です。

「満ち足りることを知る者」とは救い主・キリストを知り、キリスト・イエスと共に人生を歩んでいる人のことです。この人はキリストを信じる信仰によっていろいろな利益を受けます。その利益とは霊の果実、すなわち、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラ5:22,23)といった、お金では買うことができないものです。努力で手に入れようとすると疲れてしまいます。それらは主の愛を信じ、主と共に歩むことにより贈られる贈り物です。

 

主のお名前によって 2019年10月1日 聖霊降臨節第17主日

創世記37章23~28節
コロサイの信徒への手紙3章12~17節
説教者:関義朗伝道師

キリスト者はしたいことができなくて窮屈だという言葉を聞くことがあります。このことについてみ言葉に聞いてまいりましょう。

私たちは度々、神から離れるにもかかわらず、神は私たちを愛し、豊かな実りある人生へと導いてくださいます。この愛は見返りを求めない愛(アガペー)で、12、13節に書かれている徳目(憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し)の上にあります。私たちは礼拝に参加することや、聖書を読むことや、祈ることによって、この愛を神からいただくことにより、徳目を身につけることができます。このことを疑う必要はありません。聖霊の神がそのように私たちを助け導いてくださいます。これらのすべてが「主イエスの名によって行う」(17節)生き方です。創世記に記されたヨセフはそのような生き方をした人の一人です。

おのおのが神に感謝し、すべてのことを主イエスの名によっておこなう生き方をすれば、私たちに神の愛が与えられ、御言葉に示された徳を身に着けることができます。

 

十字架と新しい創造 2019年9月24日 聖霊降臨節第16主日

エレミヤ書9章22~23節
ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節
説教者:北原和夫牧師

イエス様の十字架はすべてのものが無とされ絶望とされることです。ここにおいて人の功績は意味を失います。しかし十字架の死は復活につながります。私たちは主の復活により、自分の努力によらず新しく創造されたのです。

「原理」(ガラ6:16)とは元来、植物の葦を表す言葉です。葦は真直ぐな茎を持っていて、これから基準や物差しという意味が生まれました。つまり原理とは真直ぐに仕立てられた道筋です。新しく創造されたすべての人にはこの道筋が与えられます(エフェ4:1~6)。

人は人生において、行き詰り、屈辱、痛みを経験します。それは苦しいことです。しかしもっと深い十字架の絶望を甘んじて受けた主を思い起こす時、私たちは新しく創造されたことに気づきます。「知恵や力や富を誇らず、むしろ主なる神を知ることを誇る」(エレ9:22~23)ようになるのです。私たちには主の十字架のほかに誇るべきものはありません。

 

主を証しする誇り 2019年9月15日 聖霊降臨節第15主日

箴言25章2~7a節
コリントの信徒への手紙二・11章7~15節
説教者:関義朗伝道師

パウロはギリシアの都市コリントで伝道していた時、使徒の権利である報酬を受け取りませんでした。それはパウロの宣教を邪推されないようにするための手段でした。そのパウロを支えたものは「誇る者は主を誇れ」(2コリ10:17)という誇りでした。これは「知恵や力や富を誇るな。むしろ誇る者は主なる神を知ることを誇れ。」(エレ9:22-23)と同じです。

コリントではパウロの努力によって、また福音そのものの力によって、多くの人がキリストを救い主と信じるようになりました。箴言25章も王が自分の権勢を誇るのではなく、神に仕えていることを誇りに思ったことが示されています。

主が示してくださったキリスト者の働きは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(2テモ 4:2)です。私たちが弱さを持った不器用な人間であることを知っておられる主が、使徒たちと同じ働きを私たちにも与えてくださいました。地位や財産や血統を誇るのではなく、私たちは主を証しする委託を受けたことを誇りに思いたいと思います。

 

主の言葉に従う 2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日

出エジプト記23章10~13節
ローマの信徒への手紙14章1~9節
説教者:関義朗伝道師

パウロは信仰の強い人達に「信仰の弱い人を受け入れなさい。」(ロマ14:1)と勧告し、信仰の弱い人達に「信仰の強い人を裁かないように、侮辱しないように。」(ロマ14:10)と勧告しています。信仰の強い人達はキリストの救いのみに信頼している人達であり、信仰の弱い人達はキリストの救いの他に食物規定や安息日・安息年規定を厳格に守ることで信仰を保つ人たちでした。安息年は、土地は神のものであり大切にしなければならないことを人に教えるものです。規定に書かれていることを守ることが大切なのではなく、神との関係において規定を守ることが大切です。

パウロはどちらの信仰の人も受け入れなさいと勧告しています。私たちの心は信仰的に強くなったり弱くなったりしますが、そのどちらも受け入れるよう勧めています。

イエス様は権力者・死・罪・律法の支配から私たちを自由にし、神の支配の下に私たちが良心に従って、共に生きていくことを可能にしてくださいました。誰からも支配されず、支配することなく、共に主にあって平等の人として助け合うことができるようにしてくださいました。イエス様はご自分を信じていない人のためにも命をささげられました。イエス様はパウロの勧告を完全に行うことができない私たちの弱さや限界もご存じの上で、私に従いなさいと言われます。

 
1 2 3 »

年別アーカイブ

  • facebook
PAGETOP
Copyright © 日本基督教団 ベテル教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.