東京都渋谷区富ヶ谷にある教会です。「ベテル」という名前はヘブライ語で 「神の家」と言う意味です。聖書を大切にしています。

説教集

教会が生まれた 2020年5月31日 聖霊降臨日(ペンテコステ)・ベテル教会創立記念日

エゼキエル書37章1~6節
ヨハネによる福音書14章15~21節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。高音質の説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

聖霊降臨日おめでとうございます。聖霊降臨はキリスト教会が誕生した出来事です。イエス様は復活から40日目に天に昇られました。その後、弟子たちが毎日集まって祈っていると、その10日後に弟子たちに聖霊が降って、いろいろな国の言葉で福音を語り出したのです。福音とは、「イエス様がこの世に生まれて、信じる人をいろいろな束縛から解放したこと、今日でも復活のイエス様(キリスト)を信じる人々は束縛から解放されることを伝える良い知らせ」です。イエス様を信じる人々にはイエス様の恵みと父なる神の愛とを思い起こさせてくださる聖霊が降り、その人の内にとどまります。

ベテル教会は1952年の聖霊降臨日に創立しました。創立当初は初代牧師の自宅で礼拝が行われていました。次第に礼拝参加者が増えたことから、近くに土地を探し、1960年に富ヶ谷のこの地に土地を取得して会堂を建設し、その次の年の7月2日に新会堂で最初の礼拝をおこないました。献堂した人々は地域伝道の夢を持っていて、その当時に始めた学習塾には最大で80人の子どもが集まったそうです。さぞ1階の集会室は賑やかだったことでしょう。ベテル教会は教会学校を再開しましたが、子どもはほとんど来ていません。これは悲しむべきことなのでしょうか。

聖霊がベテル教会に集う人々の内におられて、私たちを導いて下さり、この地域の人々にも働きかけておられることを信じるならば、結果をあれこれ気にする必要はありません。主がベテル教会の教師と信徒を用いてこの地で伝道しておられます。偶然通りかかった人がベテル教会の十字架を見つけて、ここに教会があることを知り喜ぶことは、過去にもありましたし、それは現在でも確かにあることです。主なる神はこの教会の人々に働きかけ、私たちの内なる聖霊が私たちを導き、私たちの存在の全てを用いて、私たちが知らず知らずのうちに人々に福音を宣べ伝えさせていただくという栄光を与えてくださっています。私たちは信仰を得て強められました。私たちはこの信仰によって活き活きとした人生を送ることができました。そのことを思い出して感謝する。その感謝の気持ちは自ずと表情に現われ、行動に現われ、喜びとして現れ、それが人々に伝わっていくのです。聖霊が私たちをそのように導いてくださいます。

 

罪を取り除かれる主 2020年5月26日 復活節第7主日

サムエル記下12章1~17節
ルカによる福音書5章27~32節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝映像を【YouTube】で配信しています。  音質が良い礼拝録音は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。礼拝される場合は最初から再生してください。説教は24分17秒~49分05秒にあります。)

古代イスラエル王国の王ダビデは偉大な王として称えられていますが、彼も罪を犯す人であったことが聖書に記録されています。彼は悪事を隠すために忠実な部下を死に至らしめるよう命じ、その人は戦場で敵に殺されてしまいました。一連の悪事は完全犯罪のごとく闇に葬られるかに思われましたが、主なる神はダビデの罪を咎め預言者ナタンによってダビデは罪を完膚なきまでに思い知らされました。

徴税人レビはローマ皇帝への税金取り立ての職のためユダヤの同胞から罪人と蔑まれていました。主はどのような人も罪を犯す存在であることを告げています。罪を犯さないように生活することは大切なことです。しかし罪を犯してしまったならば、自分を正当化するのではなく、それを認め、主に立ち帰ることが大切であることを教えられます。ダビデはナタンに告白し、レビは全てを捨ててイエス様に従いました。

罪を悔いることは、罪を犯すことが苦しみであることへと私たちを向けさせます。罪は一瞬の快楽、その結果は長い苦悩。悔い改めるまで苦悩は続きます。罪を認め悔い改めて主に立ち帰る人の罪を、主は取り除き、再び命を与えてくださいます。

 

苦難と勝利 2020年5月19日 復活節第6主日

出エジプト記33章7~11節
ヨハネによる福音書16章25~33節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。)

イエス様は十字架の出来事の直前に「私は既に世に勝っている」と言われました。しかし、イエス様はこの言葉の前に「あなたがたには世で苦難がある。」という言葉も語っています。苦難と勝利はセットで与えられるのです。

そしてイエス様は私たちに「勇気を出しなさい。」と言われます。イエス様は私たちが苦難や不安の中で俯いて倒れるのではなく、眼を上げて私たちの助けがくる光や雲の柱の方向を仰ぐように、私たちに促すのです。光や雲の柱は神の現臨の象徴です。確かに今も臨在する、すなわち、ここに居られるキリストに目を向ければ勇気が出てきます。

キリストの勝利とはキリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順であったことを私たちが知って、すべての人がキリストに従うしかなくなるという意味での完全な勝利、負ける者がいない勝利です。その勝利の果実は苦難の中にあっての平和、平安です。不安や苦難の世にあって、その只中で、私たちは心安らかでいられます。キリストが共にいて私たちを憩いへと導いてくださることを確信しているからです。その確信はイエス様の十字架と復活によって保証されています。

 

ママの教え 2020年5月10日 復活節第五主日・母の日

箴言1章7~9節
マルコによる福音書3章31~35節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

5月第2日曜日を「母の日」として記念することは教会で始まりました。その元になっているのは十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」という戒めです。これは産みの親だから敬えという意味よりも、母には主なる神の愛やその御業を伝える役割があるから敬いなさいという意味です。その意味で、箴言1章8節には「母の教えをおろそかにするな」という格言が書かれています。

教会関係者以外はこのことを知らない人が多いと思いますが、この起源は大切にしなければなりません。昨今では児童虐待や育児放棄などが社会問題となっています。その背景には貧困問題などがあって単純に親を責められない場合もありますが、子どもを自分の所有物と勘違いして服従させようとしているのではないかと考えられる場合があり、その場合は親の責任は重大です。育児放棄や虐待をする親は尊敬される値打ちはありません。多分、本人たちはその親を通して神の愛を受けなかったのでしょう。だから子を愛することができないのだと思います。そういう人は神に立ち帰って悔い改めて新しい関係を築かなければなりません。

イエス様はマルコによる福音書3章34節で、イエス様の周りに座っている人々を見回して「私の母、私の兄弟」と言われました。信仰によれば、血がつながっている人が母なのではなく、神の愛や御業を伝える人が母なのです。その母を敬うようにという戒めに応える一つの形が母の日です。このような意味で、母に感謝することは神に感謝することにつながります。

 

神からの贈り物 2020年5月5日 復活節第4主日

イザヤ書42章1~4節
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

私たちはイエス様を甦らせた神の力の贈り物として、よみがえらせていただき、天上(神の国)に居場所をいただきました。この贈り物は何物にも代えがたい最上の富です。

しかしながら、この贈り物はすべての人が受けようと思えば与えられるものなので、私たちはその価値を当たり前のものと思ってしまうようになります。更に、私たちは各々の生活の場で、この世の富や名誉、過去の悪を取り去るという物、私こそ救い主と名乗る人など、いろいろな誘惑を受けています。これらは復活のイエス様、キリストから私たちを離れさせ、以前の生き方に戻す力です。

キリストを信じることなしに神の愛とその力を知ることは出来ません。ある高齢の牧師は70年ほど前の雪の日に最初に教会に行った時、「よく来たね」と抱いて迎えてくれた婦人のことを昨日のことのようにお話されました。この暖かさは神の愛から来るものです。

誘惑に負けて神からの贈り物の価値を見失うことなく、その贈り物に感謝して日々を送りたいと思います。

 

復活のキリスト 2020年4月26日 復活節第3主日

イザヤ書61章1~3節
ヨハネによる福音書21章1~14節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

弟子たちは、主が死んで取り去られたという失望や状況を変えることはできなかったのだというあきらめ、などの思いを持って、故郷に帰り、漁をしていたに違いありません。舟に乗っていた弟子たちが見た人物は大体90mほど離れた岸辺にいた人でした。けっしてはっきりと見えていたわけではありません。それでも弟子は確信しました。あそこにおられる方は「復活のキリスト」イエス様だ、そう確信しました。失望や諦めの気持ちが希望と喜びに変わったことが「主だ!!」という叫びになりました。それは復活のキリスト・イエス様が呼びかけたからです。

弟子たちが「主だ」と叫んだように、私たちも聖書の御言葉を声に出して読み、さらに声に出して「主だ!!」と言ってみましょう。不思議な力を感じるに違いありません。主は私たちのそばにおられるということを感じます。実に聖書の御言葉に主は宿られており、主は私たちに呼びかけてくださっています。信仰があるかないかは問題ではありません。すべての人に出会いの機会は与えられています。もしあなたが悲しんでいれば慰められ、怖がっていれば「恐れることはない」と言って守ってくださいます(イザヤ61章)。主はよみがえられました。私たちがこのことを信じようと信じまいと、このことはすでに起きた事柄です。この不条理な世の中にあって、あらゆる悲しみや不満足な私たちの人生のただ中に、主は立っていてくださいます。

 

弱さの中で発揮される力 2020年4月21日 復活節第2主日

エゼキエル書34章11~16節
コリントの信徒への手紙二・12章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

世の中一般には「力は強さだ」と信じられています。しかし、愚かな金持ちの譬え(ルカ12:13-21)にあるように、人間の間でどれだけ権力を持っても所詮それは儚いものです。金持ちは自分の富をすべて自分の倉に入れて喜びましたが、その夜のうちに命が取り去られました。

弱い時には自分の力など何の役にも立ちません。主に祈り、主に寄り頼むしかありません。実にこの時に私たちは神の力を知ることができるのです。そしてすでに恵みが与えられていることに気づきます(2コリ12章)。

ベテル教会が今日もこの地で礼拝をおこなうことができるのは主なる神がこの地で宣教されることをお望みになるからです。主は私たちを養ってくださいましたし、これからも養ってくださいます(エゼ34章)。高齢になって弱くなった時は十字架のイエス様の弱さを見上げる時です。少人数の群れとなった今は、私たちがキリストの体の一部分を構成する、小さいけれどなくてはならない要素だということを感じる時です。しかも私たちはただ弱いだけではありません。主を礼拝し、恵みに与ることを心から望んで、礼拝に集っています。そして世界中にある教会とつながって主の体の一部です。主のご計画を信じて安心して主に従ってまいりましょう。

 

主はよみがえられた 2020年4月12日 復活節第1主日

イザヤ書55章1~5節
ヨハネによる福音書20章1~10節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。音質が良い説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

主のご復活おめでとうございます。今日は主がよみがえられたことを記念する復活祭礼拝です。ベテル教会ではこの日に永眠者を覚えて、その方々の写真と共に礼拝をおこなっています。感染症が拡大していることからインターネットを使っての礼拝となりますが、共に時を同じにして礼拝することができますことを主に感謝します。

復活は生き返ることとは違います。生き返るのであればまた死ぬことになりますが復活は永遠の命に生きることです。聖パウロは「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と告げました。復活させてくださるのは主なる神です。ヨハネによる福音書20章1節から10節には復活のキリストは現れていませんが弟子たちはイエス様の体がなくなった墓を見てイエス様の復活を信じました。かつてイエス様が告げた言葉(マタイによる福音書16章21節ほか)や旧約聖書の言葉(詩編16編、110編ほか)を思い出したからです。

ところで、そもそも死とは何でしょうか。死は、病気によって起きるのでも、事故によるのでもありません。死は主なる神の御心によるのです。私たちは信仰によって、死は主がお定めになった事柄であることを知っています。そしてまた、私たちはイエス様のよみがえりを通して、私たちがよみがえりの命へと移ることを知るのです。主は確かによみがえられました。主を信じて主の御許に召されたベテル教会に連なる「神の家族」、私たちの兄弟姉妹も永い眠りの後によみがえらせていただける希望を抱いて召されていきました。私たちにもその希望が与えられています。

 

裁く者が裁かれる 2020年4月5日 受難節第六主日礼拝(棕櫚の主日)

創世記22章12~14節
ヨハネによる福音書18章33~40節
説教者:関義朗伝道師

(礼拝の全体を【youtube】で配信しています。説教音声は下の方の音声ファイルでお聞きいただけます。)

今、私たちは新型コロナウイルス感染拡大の中にいます。私たちはこの感染症をどの様に捉え、どのように対処すべきでしょうか。信仰的な側面からこの感染症について考えてみたいと思います。

この病気を通して神はアブラハムを試されたように、私たちを試しています(創世記22章)。この病を経験している私たちが改めて知ったのは、自然は物を言わず大人しい存在、裁かれるものだと思っていたけれども、実は裁くものであったことが明らかになりました。この時期に私たちは感染を怖がり、死の恐怖に怯えるばかりではなく、私たちの生活の仕方が間違っていなかったか反省しなければなりません。自然を人間の快適な暮らしや経済を発展させるために犠牲にしていなかったかを問い直さなければならないと思います。感染症だけではありません。異常気象や自然災害が増えていることにも目を向けなければなりません。私たちは自然の審判者ではありません。

イエス様の言葉(ヨハネによる福音書18章33~38節)に聞くならば、私たちは今までの自分たちの生活の仕方を改める方向へと行動しなければならなくなります。神はイサクの代わりに雄羊を用意してくださったように、またイエス様を死の3日後によみがえらせてくださった様に、世界が感染症の危機の中にいるこの時にすでに私たちには想像することもできないようなものを備えてくださると信じます。

 

一粒の麦の種 2020年3月29日 受難節第5主日礼拝

イザヤ書63章7~10節
ヨハネによる福音書12章20~36節
説教者:関義朗伝道師

YouTubeで礼拝の様子を公開しました。音声データで説教をお聞きいただけます。)

麦の種は土にばらまかれ、踏みつけられます。イエス様はご自分を一粒の麦と譬えられて、自らが一番小さく弱い者とされることによって、この世界で小さくされている人と同じ立場に立ち、その苦しみを経験されました。私たちの苦しみを担い、救い主となられました。(イザ63:7-9)。

イエス様の死はこの世界で罪人とされ、小さくされていた人たちのためでした。一方で、権力者や金持ちに対しては裁きが告げられました(ヨハ12:31)。裁かれているのは地位や財産ではなく、傲慢に陥り、神を蔑ろにする人格そのものであり、それは回心を促すものです。

日本で女性医師第1号となったキリスト者荻野吟子は病気の女性が男性医師から屈辱的な処置を受けることを良しとせず、女性医師の道を開きました。彼女は自分が小さくされている側の人間であることを自覚し、必要なのは女性医師だと気づいたのです。そこにはイエス様の教えがありました。イエス様は一番低いところにおられて私たちと関わっておられます。

 
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